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■議論の余地しかないかもしれない■
-like a diary-

2003年
10

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1030

 さて、私が今年厄年だってことはもう伝えたと思います。そしてまた災厄が・・・。腰の痛みで生活に支障を来してきたらどうやら軽いヘルニアで、さらに骨が圧迫骨折しておりました。道理で痛いわけだ・・・。そして、その夜今度はあるレストランで飲茶をとろう、蒸籠を手前から上に開けたら思い切り高圧の蒸気を手に当ててしまうことになって火傷しました。今は薬を塗って手袋をして生活をしています。(病院にいったら皮膚がただれているわけでもないので、ごくごく軽傷とのこと)一月三日に早速車を当て逃げされミサイドラーが大破、五月に一月もわけのわからない伝染病で肝臓を悪くし病床に、八月の終わりに三週間も風邪で寝込み、九月になって腰を痛め軽いヘルニア&圧迫骨折、手に火傷・・・。こうまでくると、厄年ってほんとにあるのかもしれない、って思ってしまいます。確か大宮八幡で厄除けを一万円前後払ってやってもらった気がするのに。

でも負けない。(何に?)

 

 

1029

 観艦式での話。その辺にいた(きっと水雷科とか、射撃科とか式には必要ない暇人部隊の人)幹部自衛官と話していたら、やはり100年以上の伝統というのはシーマンシップを培う上でも、操艦実務の上でも重要な役割を果たしているとのこと。確かに、江田島の幹部候補生学校は煉瓦作りの立派な物で、自然と背筋が伸び使命感を植え付けるには最適でしょう。金曜日はカレー、というのもやはり伝統。五分前に何事も終えるというのも素晴らしい。なによりも、自らの半生をかけて艦の上で仲間と共に暮らしてきた情熱や使命・愛着などを受け継ぐというのは、机上の教育では効果を上げることが出来ないものでしょう。(最近になって拡大した韓国軍や中国軍などには土台無理な話でしょう)こうした先達の「思い」の固まりについて最近考えさせる物が多いのです。神社にしても学校にしてもそんなものを感じずに入れません。古い神社を訪ねてみたときなど、土地の人々が何世代にも渡って守り祀ってきた思いが「御利益」になっているのではないか、とすら思うほどです。そこに「思い」が注がれた有形無形なものには一定の敬意を払わなければならないと思いました。

 

 

1028

 最近とても腰が痛いので診断を受けたら軽いヘルニアとのこと。軽いといっても腰を曲げたり一時間も座ったりしていると動けなくなったりするものです。今年は健康に問題を抱えることがなんと多いことでしょう。体の一部を庇いながら生活をしていると、体全体に疲労がたまったり凝ったりしてしまいます。

 さて、自分のレントゲン写真をみていると患部がどこだか全く分かりません。ところが医者には分かる。偶にテレビをみていると、霊が見えるとか、オーラがどうのこうのだとか、語っている人がいますが、これらの人についても特別な能力なのだろうか、と思ってしまいます。奥さんであれば他の人が気づかない夫の変化に気づくことってありますよね。おそらくそんなものではないかと思うのです。誰にでも再現可能性はあるものの、そこには観察や経験、学習などの積み重ねによらなければ得られない能力だと思うのです。医者がレントゲンを読みとれる、しかも医者の能力によって読みとれる情報に差が出てくる。ほら、霊能力と一緒だ。きっと専門的な訓練さえ施せば誰にだって出来るのです。

 

 

1027

 昨日、日曜日は海上自衛隊の観艦式に行って来ました。何年かに一度あるイベントなのですが、護衛艦が八十隻近く参加するとても大規模なものです。私は縁あって、チケットを手に入れることが出来、四回くらい乗艦しました。私はHPの写真を見てもらうと分かるように、軍艦や飛行機が大好きで、写真を撮るのがライフワークになっています。今回は横須賀から乗艦したのですが、横須賀駅に近づき海がみえ、護衛艦が並んでいるのをみると自然と笑みがこぼれてしまいます。写真を撮るには、それはもう大変な作業です。一番に乗艦し、甲板のベストポジションを確保するのです。相模湾の実施場所につくまでの三時間は寒風吹くすさぶ中、数時間に渡り立ちっぱなし、開始されると揺れる艦の上で脚を踏ん張りシャッターを押し続けます。その間、「ライバル」たちに場所を奪われまいと場所を確保し続けなければ行けません。そんな努力をして素敵な写真が撮れたときは感動です。帰宅するとどっと疲れが出て、脚が痛くよく歩いてこれたものだと我ながら感心してしまいます。しかし、素晴らしい護衛艦の勇姿、自衛官の精勤ぶりを思い返しながら、船の揺れをベッドの中で感じながら眠りにつくと、これは「満足」そのものなのです。

 

 

10月23日

 私は、週に何度か英語を教えているのですが、こうして誰かにものを教えるのは初めてではありません。大学入学直後から一貫して家庭教師や塾の講師をしてきました。教壇に立つ側になると、生徒側だったときに嫌だった先生の言葉をなるほど、こんなときにいいたくなるものなのか、と思います。例えば、○○が正解だった人は出来る人です、などたわいもない言葉ですが、生徒にとっては結構プレッシャーになるものです。しかも今も思うのですがそういったプレッシャーは必要ないと思います。しかし、教壇に立ち何かを教えていると、こういう問題を指示なしで解けるのは才能あるなーって思ってしまうものですから、つい言ってしまいたくなります。解ける人にとっては自信がつくかもしれませんが、他方解けない人にとっては、才能のような越えられないと思われがちな「壁」を意識せざる得ないものです。他にも教壇に立って初めて見えることも数々あるのですが、いずれにしても、常に思うのは先生の復習しよう、などよく聞く言葉は、言いたくなるのも分かるけれども、そういうことこそ生徒にさせて初めて教育効果や教育指導が発揮されたと言えるのではないか、ということです。

 

 

10月22日

『2ちゃんねる』を読んでいたら、こんな書き込みを見つけた。

「ところで当機には本日、たくさんの元気なお友達が乗ってくれています。おじさんは子供の頃、空を飛びたくて、大きくなったらパイロットになりました。みんなも、たくさんの夢を持って、元気に大きくなってください」

 つい最近中国が有人ロケットをとばしたというニュースがあったけれども、あれがソユーズのコピーだったしても、中国の子供達の脳裏に刻んだものは、いくつ高性能の衛星(じっさいには使い物にならないという話を聞いていますが)を打ち上げるものの何倍も大きなものがあったと思う。中国の子供たちは、あの打ち上げの光景に胸躍らせ、20年後、今日の感動を胸にエンジニアとして世界で活躍するのだろうな、と思う。ビジネスラインとして、技術向上として成り立つかといえば、成り立たないのかもしれないけれども、夢とはそういうものだ。

 そんな夢を授けられる者も授けられる瞬間に立ち会えるのも人生の中では本当に貴重なチャンスに他ならない。

 

 

1021

選挙が近いみたいですね。(勿論、興味もないし行くこともないのは以前お話ししました)さて、ちょっと思い出したので、また私が選挙関係の仕事をしていたときの話しをしましょう。私が市長選に携わっていたある群馬県の市は、典型的な悪い市長がそれまで市政を敷いていた。金を取って市役所職員の入社(?)を私にしたり、自分の経営する建設会社の借金を任期中に八十億も無くしたりしていた。そんな悪い市政に反抗した職員はひどい嫌がらせを受けたという。

対立候補である私たちの陣営の事務局長をしていた人は、七十過ぎかと思われるおじいさんで、何故か私よりPCが出来る不思議な人だった。実は、この人一度も選挙に携わったことがないという。そこで、私が何故こんなことをしているのか聞いてみた。すると、彼は、こういった。「私は数年前、市長の恣意的命令に逆らって、意地でも命令を実行しなかった。すると、彼は、私を左遷しただけでなく、周りの職員にも圧力をかけ、三・四年に渡り一度も他の人と口をきかなかったし、何の仕事もしなかった。もはや市長に対して恨みはないが、その間に受け取っていた給料数千万円分は市民に対して申し訳ない。そのお返しを少しでもするために現市長を倒す手伝いをさせてもらっている。」七十過ぎかと思ったら彼はまだ五十代だった。その間の苦労がしのばれる。

 

 

1020

超音速旅客機コンコルドが、24日に運航終了するというニュースを耳にする。つくづく残念。私は小さい頃から飛行機とか船とかが大好きで、いつか、いつの日かコンコルドに乗ろう!と決意したのは二十年以上前のことだと思う。テクノロジーの進化分化というのは、必ずしも一本道ではない。けれども、最終的には、一本の幹しか生き残ることは出来ない。もしパンナムと日航がコンコルドを買っていたら、恐らくはボーイングも超音速機計画に乗り出さざるを得ず(実際に過去、何度もチャレンジしては失敗している)、コンコルドの次世代機が太平洋航路を飛んでいたことでしょう。今頃は第三世代機が飛んでいて、ひょっとしたらマッハ5クラスの第四世代、第五世代機がすぐそこまで現実のものになっていたかも知れない。あの日、あの時、あの選択があれば、その後のわれわれの未来は別なものになっていた。あらゆる分野、業種、人生で言えることだと思う。

 

 

10月16日

「人生はさ、リセットできないんだ。そんなこと分かり切ったことでも、みんなリセットできないことにもがき苦しむ。リセット以外の道、オルタナティブな道は実は結構いっぱいある。抽象的にいえば、失敗を挽回するような成果を上げるために努力をすることだ。例えば、仕事で失敗したのであれば、それ以上の業績を上げるか、辞めて他の分野で圧倒的な成果を上げることだ。例えば、間違って彼女を傷つけてしまい振られたのであれば、もっと素敵な彼女を作って同じ間違いを犯さないように、そしてもっと深く愛してあげることだ。例えば、学校の受験に失敗したのであれば、次に受ける学校をもっと偏差値や環境の良い学校に合格するために受験勉強することだ。確かにそれでも失敗した事実は消えないかもしれない。ここにあげたのは例だ。『失敗を挽回するような成果を上げる』というのは、目に見えることだけじゃなくて、見えないことも含んでいるから注意をしよう。きっと○○すれば、私はその失敗を受け入れられるようになるだろう、っていう高見にまでいくことだ。そう、みんなリセットできないで苦しんでいるのは、そんな高見にまでいく努力をしたくないから、努力をなんとかしないですまないものだろうか、と考え続けているからなんだよ。この社会にはオルタナティブはいくらでもあるのにね。でも、僕はさよならだ。」

 こういう遺書を書いて死ぬのなら、中央線が遅れて迷惑するのも甘受しようかと思った。

 

 

10月15日

今週の『プロジェクトX』みましたか?「楽団員たちを襲う極貧生活・・・」とかキャプションに付いていたが、きっと、これ見たプロ・オケの楽団員は、「今もそうだろうに・・・」とぼやいたと思います。今でも極貧生活から抜け出たプロ・オケなんて日本にはないんじゃないでしょうか。私は東急bunkamuraでバイトをしていたことがあって、そこは売れないプロ・オケの楽団員が沢山いました。友達になった女の子は偶然私の家の近くで二人で部屋を借りていて、近所にある川沿いの公園で練習をしていました。遊びに行ったときに、私のために演奏してくれたのはとても嬉しかったものです。私はなにかを観るのが大好きで、能・狂言・クラシック・ライブ・演劇・試合なんでも観ます。そして、私の友人にも音楽や舞台を生業にしようとしている人が結構います。(そして、まともな会社勤めの人間がほとんどいない!)これでは、高水準のアーティストが育たないんじゃないか!っていつも思うのですが、他方でもしかすると、何かしら根元的な問題なのかもしれません。日本の芸術部門が抱えている問題というのは、結局、「お稽古事」産業であって、大人が嗜み、楽しむための娯楽や芸術じゃない。あくまでも、親が金出して子供に習い事させるためのツール。言ってみれば、語学教育産業のようなもので、使える語学を教えるためじゃなく、その偏差値をクリアするための英語教育だから、使い物にならないのと何処か似ていると思うのです。

いずれにしても、ファンには困った環境が日本にはあると思いました。

 

 

10月14日

 一年前、私はある試験を受けたのだけれども、あの試験で印象深いことがありました。私の前の席に座っていた女の子のことです。彼女は試験が始まるまでの間は大体の受験生と同じようにノートをみたりしていました。そして、解答用紙・問題などが配られるときになると、急に鞄の中から携帯をとりだして、電源を入れたのです。なにをするのだろう・・・、とみていると、待ち受け画面にしてある男の子の画像にキスをしたのです!そして、電源を落とし、彼女は試験に臨みました。

とっても印象的な出来事でした。まるで小説のようではありませんか?その女の子が合格を果たしたかどうかはわかりませんが、今も元気にしてるのかなーって偶に思わずにはいられないのです。

 

 

10月10日

きっと、男の子なら良くも悪くも一度はジョン=F=ケネディについて考えたり、調べたり、何かを積極的に読んでみたりしたことがあるんじゃないかと思う。実は、私もそうで、確か、中学一年の終わりの時だったと思うけれど映画『JFK』をみてから色々読んだ気がする。(余談だけど、あの映画が一番ケビン=コスナーがかっこよかったと思うのは私だけじゃない。そして、オリバー=ストーンの最高傑作だと思う。『7月4日に生まれて』、『エニーギブンサンデー』も好きといえば好きだ。でもJFKの方が良いと思う。)それから別の本で、JFKの演説が英語叙述の極地のような解説がなされてあって、演説集(邦訳付き)を買った。その演説は英語が苦手な人でも進めたいくらい、崇高で、理想高く、未来を切り開く力にあふれている。ま、それも実は余談。

この程度のことは、男の子なら一度は通る道なんじゃないかと思っている。さて、テレ朝で『ケネディ暗殺40年目の真実』という番組がやっていましたが、別に40年目の真実は無かったと思う。今日言いたいことはそれだけだ。そして、先週と一月前のnewsweekに新事実として、ケネディ家とローマ法王の繋がりと、JFKの愛人の存在が暴露されていたのに、礼賛しか出来ない鳥越さんと、佐々淳之はもういろんな所から退場した方が良いと思った。

 

 

10月9日

 最近購入する本の八割はネットで買うことにしているのですが、クレジットカードを先月作ったことから、主に使うサイトを「アマゾン」に変えてみました。(アマゾンもたまには使っていたが、それまでは「bk1」。Bk1はコンビニ払いが可能で、検索結果が見やすい。)アマゾンは、クッキーの情報を駆使するらしく、サインインするたびに、これまで購入した本の情報を下におすすめ本を表示してくれるのです。これを初めてのぞいてみたのですが、並んでいるものを見てびっくり!

国府田マリ子DVD、本多孝好、村山由佳、落合信彦、テイルズオブファンタジア(ゲーム)、TOEFL TEST対策徹底リスニング、絶対確実債権回収法・・・

どういうことでしょう。とりあえず過去に買った本の同種のものを並べたのでしょうが、わけわからないジャンルが並んでいます。どうでしょう。顧客の気分のダイアグラムでも作成して、恋愛→ハードボイルド→仕事→勉強→アイドル、などと興味が移るのを予想しておすすめ本を表示させるマクロでも作っては?結構いけると思うのですが。

あ、そういえば私の本棚も興味がなんなのかわからない。

 

 

10月8日

ちゃんと話しても、しっかりと書いても、そのとおりの意味で相手には伝わらない、という現象は避けがたいものです。特に、その内容が革新的なもの、新しい概念のものであるほど、このコミュニケーションの不完全さを思い知る機会が多くなります。どうすれば良いのか、それは、何度も繰り返し同じことを言うか、書き続けるか、しかないでしょう。一度だけで伝達が精確に達成された相手に対しては、それは「くどい」と感じられるかもしれませんが。
 ものごとをインプットするとき、リアルタイムで内容を予測しています。そうでなければ、会話もスムーズにできません。「次はこうなる」「この人は、きっとこう言いたいのだ」と予測して、そういった概念を持って待ち受けているのです。ですから、そのとおりのものが来たときには、「うんうん、納得」と首を縦にふる結果になって、ときには、「なんだ、退屈な話だな」といった辛口の感想を返すことにもなりますが、一方では、そのとおりのものとは違った情報が入ってきたときには、既に予測されて待っている概念とのギャップに驚き、ある程度の思考時間を要することになります。ここで思考しない人は、インプット情報を無視して、つまり誤読、誤解をすることによって自分の概念に合わせてしまう、といった対処をしますし、思考ができる人は、「新鮮さ」を感じ、「新しさ」を取り入れることができます。そうした受け取り方の準備はなかなか難しいもので、「出来るだけ日本語を理解する訓練をして下さい」とアドバイスしても、それを聞いて激怒する人は思考が出来ない人の悪循環なのでしょう。

 

 

10月7日

 偶に思っていることなのですが、私が友人と会う時間帯が夜中の十二時前後をすぎてから、という時が多いのはどういうことなのでしょう。と、いうのは、私は比較的時間割を自由に決められるのですが、多くの友人が同様に時間をとってくれるというのは不思議なことです。(というか、これを読んでくれている人の半数はそういう人だったりする。)さて、ここでかんがえられるのが、「類友」ゆえに、みんな時間が自由に出来る人なのか、それとも、生活や勤務体系が多様化した結果、深夜に時間がとれる人が多くなったのか、ということです。サマータイムが省エネの意味をなさなくなったことですし、本当ならば後者を信じたいのですが、きっと私と同じようにきっちり拘束されるのを好まない人なんだろうな・・・と思うと、私を含めて将来先行き不透明な人ばかりなのだな、とため息が出てしまうものです。

 

 

10月6日

 洋菓子と和菓子、どっちが好きですか?

「○○派」って言うほど、違いがあるようなものではないと思うのですが、暇をもてあました私は考えてみました。(そりゃ、日本で作られたお菓子と、海外で作られたお菓子という違いはあるでしょう。)

洋菓子は、甘くするのに、砂糖しか使っていないことがポイントじゃないでしょうか。中国のお菓子についても言えると思うのですが、日本のお菓子は、多くは確かに、砂糖が使われてますが、偶に果物を干したものを使ったりして、甘くしているように思います。ケーキを考えてみましょう。クリームにしてもスポンジにしても実は砂糖を加えているだけじゃないでしょうか。(チョコレートは微妙といえば微妙。)和菓子を色々食べていると、柿を干したり、砂糖を使うにしても、砂糖に果物を漬けたりしていると思いませんか?

砂糖を使うことを極めたのが洋菓子で、甘さの幅をできるだけ広げようと極めたのが和菓子なのかもしれない・・・、なんてことを考えてみました。

 

 

103

 以前、「人道的」援助と言われているものが、倫理的な目的のみではなく、実はかなり現実的な要請から行わざるを得ないという話しをしたと思いますが、環境対策についても同様です。

 すべての市場が完全競争であるとき、消費者が効用最大化、生産者が費用最小化、利潤最大化の行動をとれば、競争均衡において、生産物の消費者問での効率的配分、生産要索の生産者間での効率的配分、生産と消費の間の整合性が達成され、パレート最適となります。これは、市場経済の仕組みの実に良くできた最もすばらしいシステムです。他の方法では、このような自動化システムはちょっと考えられません。
 しかしながら、だからといって、市場経済が万能だと考えるのは尚早です。なぜなら、市場において外部不経済が発生した場合、そのまま市場を放任すれば、上記したパレート最適が実現しないからです(市場の失敗)。この原因になるのが、外部不経済です。例えば公害の場合、生産に要する原材料費などは自己の負担となりますが、その生産による大気汚染や水質汚濁の費用は、自己は負担せず、地域住民の迷惑という形で費用を他の経済主体に負担させます。このように、他の経済主体に負担させる費用を外部費用といいます。

 自己が負担する限界費用のことを私的限界費用といい、これにこの外部費用を加えたものを社会的限界費用といいます。市場を放置し、市場メカニズムに任せておくと、市場は私的限界費用に基づいて価格を決定することになり、本来の社会的限界費用が考慮されないために市場は失敗します。

 つまり、製品価格を下げる費用を他の人に負わせているのが、環境問題の原因です。難しい説明は抜きにしても、この程度の話しも理解できない、墨田区区議がいたので、書きました。地方議会というのは、馬鹿の巣窟だと思うし、その演説を頷いている聴衆が、もし本気でうなずいているとしたらもはや白痴のレベルだと思います。

 

 

102

 今日電車で椅子に座っていたら、向かいの椅子に座っている2人と、立っている人の3人がなんと同じ靴を履いていました。その3人はそれぞれ他人だし、年齢層も微妙に違います。同じメーカーの白いスニーカー。違いといえば、汚れ方(履き古し方)でした。大流行しているわけでもないスニーカーなのに、なんという偶然でしょう。

 さて、ここで問題があります。

同じスニーカーを履く人が3人同じ所で集まってしまう可能性と、同じスニーカーを履く人を3人同時にみる可能性とどちらが、レアでしょうか。

今日はただそれだけの話し。あまりにも珍しかったのでお話ししたくなってしまいました。おやすみ。

 

 

 


 

 

 



by kiyo