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■議論の余地しかないかもしれない■
-like a diary-

2003年4月



4月30日
月に一度の番外編。今月は一度に時事ネタを・・・

 ・ 「SARS」→だれか「いま香港に行くと千円でフカヒレ食べ放題」っていうデマ流さないのかな?
 ・ 「イラク戦争」→人事じゃない。来月私が行くって何かの冗談でしょ。
 ・ 「北朝鮮」→毎日一日中お茶の間の笑い者にされる方が悪いのか、する方も悪いのか?
 ・ 「日経平均株価最安値」→要は持ち株が上がるか下がるかなんだから、平均なんて関係なくない?投資信託なんていうリスク分散なんてギャンブラーの風上にも置けない。
 ・ 「六本木ヒルズ」→さて、あそこに区民はどれだけいるでしょう?そう、あそこ県民・市民の憩いの場。
 ・ 「ゴールデンウィーク」→目標50冊は捨てる本を選ぶ。片づけ片づけ。
 ・ 「謎の白装束」→月の裏側よりどうでもいい。


4月27日
 先日、中学生の女の子をもつ両親と話す機会がありました。お父さんいわく、友達の大切さを分かる子どもになって欲しいとのこと。親の子どもに対する希望というのは千差万別なのでしょうが、いずれにしても、親は身をもって子どもに教えること以外にないと思うのです。言葉では説得力がなさすぎると思いませんか?親と子どもは家庭の中でしか互いを見ないのです。子は親の過去や経験などは実際には見ることが出来ない。家の中でくつろぎ、酒を飲み、テレビを見ながら「私の人生の経験から言えば、勉強は大切だぞ。」といわれてもどれほど納得できるのでしょう。そもそも、人生は一人一度しかないわけで、その中の経験は一般化できるには特別すぎるともいえます。私が思うに、親は勉強して欲しければ、勉強の大切さを言葉で伝える暇がないほど子どもの前で勉強すべきだし、友達の大切さが分かって欲しければ、友達の大切さを言葉で伝える暇がないほど、友達と過ごし、友達がいれば人生楽しくて仕方ない人生を送ることが必要だと思うのです。


4月26日
『動物のお医者さん』、『僕のペット』、『HOTMAN』、『ブラックジャックによろしく』。私が知っているだけで今シーズンの新ドラマが漫画を原作としているものです。そのほか、以前の名作のリメイクだったり、「○○2」っていうものが多いと思いませんか?ちょっとだけ見たのですが配役も原作に似た役者を配していると思います。
 不況だからか、能力不足だからか、怠惰か、最近は勝ち馬にのる傾向が強くなっていると思います。それなりに失敗はしないというか・・・。原作を忠実にコピーしてもそれは、原作を超える魅力は得られないと思うのです。100%コピーはないのですから。私は漫画が大好きなだけに原作に魅力的なスパイスを加えて優れた作品になるのは構いませんが、やっぱり原作物を安易に選んだだろう制作者が作っただけあってひどい出来なのは悲しいものです。ドラマや小説などライバルが現在のものに加え、過去のソフト群である場合は常に過去のものを超える使命を背負っているだけに何かと才能や技術が必要になるのでしょう。現在のテレビ局にそれが望めない以上ケーブルを引くことにしましょうか。


4月25日
 今日電車にのっていると、隣に立っているOLが読書をしていました。電車が揺れたときにその文庫本が落ちてしまい、私のところに落ちたので拾ってあげました。ちらと題名を見るとホメーロスの『オデュッセイア』。シュリーマンが発見するまで伝説となっていたトロイの遺跡などがしるされた古典中の古典です。偶に日中図書館にいくと、営業中であろうサラリーマンがさぼっていますが、そのときに読んでいる本は実は純文学だったりします。古典は、知識の源流として後に幾万もの研究者に読み継がれるほどのものですから、やはり、魅力は十分にあるのだな、と感じました。そして、なによりも、そんな深く魅力的な知識は一部の人のものではなく、広く楽しまれているというのは豊かさの象徴なのだと思います。そこで生まれる考察や感想は、教壇で教えられるよりはるかに説得的で次の世代の人(少なくとも私の場合は)にとって古典に触れてみる誘因となるのでしょう。  
 そういえば、ロゼッタストーンを解読したジャン=フランソワ・シャンポリオンも医者だったような気がします。


4月24日
 コンビニにいくとお茶が何十種類とおいてありますよね。毎月毎月本当に良く新種のお茶が発売される。そして、私は必ず新しいお茶が出るたびに試してしまうのです。大体、試験勉強など長時間机に向かう機会が続くと「お茶ソムリエ」のように色・香り・味などでどのお茶か判断できるようになってしまいます。それくらい、勉強に集中力を欠いているともいえるのですが、人間楽しみが減ると小さな楽しみの効用を極大化させようとしているみたいです。(普段使いもしない「Iモード」のゲームに手を出してしまったり。)
 ま、それはいいとして、最近のお茶はもはや奇妙なものしかなくなり、本当に手を出すのが辛い。だったらやめろ、といわれてしまいそうですが、きっとこんなお茶私が買わなくては誰も買ってもらえないかもしれない、なんて気分になるのです。
 そう、今日のPC机の脇には「そば茶」があります。まずいのかって?是非、どうぞ。


4月23日
 寿司が大好きな私は偶に回転寿司に行くことがあるのですが、どんなに良い店に行っても、「偽物」(多くはラードを塗っていたり、人工的に作られたりするもの)がいくつかおいてある。できれば、子どもには食べさせたくない。  
 これは寿司に限ったことではなく、はては食べ物に限ったことではないと思っているのだけど、「本物」のもつ可能性と幅は「偽物」には遠く及ばないものがあると思う。「本物」はより多くの人に親しまれるものであるし、アレンジもより多様にできる。例えば、人工的に肝油などで作られるイクラ。これがイクラだと始めから教わってしまえば、食べられないこともないと思うが、「本物」より味も落ちるし、例えば、イクラのパスタなどにすると生臭くて食べられなくなるんじゃないだろうか。それは、寿司とはこんなものか、と寿司の持つ魅力を十分知ることが出来ないことになるし、食材を活かす道も狭めているのである。  
 重ねて言うが、これは寿司・食べ物に限ったことではないと私は思うのである。そして、「本物」を知るのに日本は多額のお金を必要としないくらい豊かである


4月22日
 最近流行りの車中練炭心中なんだけど、それって人生の最期を飾るに相応しい死に方なのか?  
 自殺する時に連れを探してみたり、探したらそれは世代の全く違う人同士で、何というかまあ、そんな惨めな死に方ってあり?と思う。  
 自殺というのは、個人が自分に対して生殺与奪の最終権利を行使する瞬間なのだから、最期くらい綺麗に死んで欲しいし、もちろん世間にも警察にも迷惑を掛けない形で死んで欲しい。  
 自殺の是非は別として、死に方について議論をして道を探してみるのは良いかもしれない。
 死に方と生き方はどう違うのか?
 一見すれば始め方と終わり方の差なのかもしれない。 それは、どっちが始めで、終わりか?
 末期ガンを告知されたときにだけ死と見つめ合うだけでは足りない。遠い未来のことかもしれないけど、人生の最後である死に方を考えて、その上で近未来の夢や希望を見つめなおし、今の自分を省みる。そんな「三角測量」してみない?
 そうすると、もっと自分の人生が露わになる。


4月21日
 別に改まって言うほどのことではないけど、私にはこまった体質があります。それは、少しでも昼間(夕方以降)に寝てしまうとその晩は眠れなくなってしまうことです。それが不思議なことに、1分たりとも睡眠状態に陥ってしまうとその晩は必ず眠れないのです。そのおかげで、何度一晩中時間つぶしをするために苦労したことでしょう。大体は本を読んだり、ネットをしたりして過ごしているのですが、偶には延々と首都高速をぐるぐるまわったりして過ごすこともあります。そして、朝になると眠くなってくる。すると、また夕方我慢できずに寝てしまう、すると、その晩眠れなくなる、という悪循環。甘美な昼寝の誘惑ですが私にとっては一度の昼寝のせいで、その週は何も手が着かなくなってしまう原因になっているのです。それほど寝ること自体は人より好きではないのですが、やっぱりウトウトしたときに寝るのは気持ちの良いものです。そう、実は私、日曜日に昼寝をしてしまったせいできっと今週は昼夜逆転なのです。
 みんなもそんな困った経験ありますか?


4月19日
  私は、全てのアメリカ人が「アホでマヌケな白人」だといえるほど、アメリカ人は単一の性質ではないと思いますが、90年代後半に入って随分と階層分化が進んだような気がします。いつまでも、60年代からの一番元気だった頃のアメリカの人の良い雰囲気をそのままに過ごしているかと思えば、他方で、限りなく利潤の追求を求め、果ては、株価が下がれば下がるほど利益があがるシステムを考えつく人までがいる。両者のいずれが良いか、悪いかということは別にして、言語・技術・手段・分配システムが分化し、階層分化を加速させていると思います。そして上位階層は、実は世界規模での階層であったりするように思えるのです。英語を駆使し、経営戦略は大学院で研究されるほど複雑・高度になり、情報は大規模設備投資が可能な者だけのものであり、資源配分も金融市場で独占されている。そんな現実はどの国でも見えていませんか?そして、その上位のものは他国のそれと同一人物である気がするのです。


4月18日
 私の自宅はとても静かなところにあるのですが、今日は朝八時、選挙カーの拡声器の音で起こされました。以前、選挙活動に携わっていたこともあり、その苦労も十分知っているはずなのですが、もちろん私の安眠を妨げた候補者には一票はあきらめてもらうほか無い、と思いました。ところが、実は私はそんな政治の世界に多少なりともいたことがあるはずなのに一度も選挙に行ったことがありません。ま、私は選挙権を獲得してからそれほど時間が経っていないので別としても、私の両親も二人そろって選挙に行ったことはほんの一・二度らしいのです。 私を含め両親もそこに明確なポリシーなど無いのですが、こうなってしまえば私の家の家訓や伝統になるのかもしれない・・・なんてことを思ってしまいました。
 このことは、それほど誇れるものではありませんが、伝統や教訓なんていうものはもともとそこに信念・ポリシーなど存在せず、なんとなく続けていたらそこに価値を見いだしてみようか、ということになったのかもしれませんね。さて、我が家の家訓はどんな価値にしようかな?


4月17日
「みんな〜、静かにしてください〜!!」「はい!席に座って!」なんてことをさけんでみたくて実は、塾の講師のバイトをしていたことがあります。そんなシチュエーションに身を置いてみたい、それが動機の一つでした。しかし、何故か私の講義をしている間は生徒は騒いでくれません。隣の教室では強面の関西弁で怒鳴る怖い雰囲気の先生の講義はどうしても生徒が騒ぎ出す。そして隣の部屋の先生はさけぶ「うるさいんじゃ!ぼけー!!」  
 私も是非そんなことがしてみたいと思っているのにうまくいかないのです。私はとりわけ怖い口調でも外見でもなく、丁寧語でおとなしく授業を続けているのだから、騒ぐ「隙」はとてもあるはずなのに。
 もしかするとその人の持つ雰囲気はその人の性格や希望とは無縁に放つところがあるのかもしれません。「私の講義で騒ごうものならわかっておるな?」というものが私の背中から発せられているとしたら、いずれにしても残念でした。そんな講義をした生徒たちももう高校三年生らしい。


4月16日
 私のイラク戦争に対するスタンスはこの際別とするが、イラクに対する査察問題も、アメリカがフセイン政権打倒の「錦の御旗」を求めていることにすぎない。それが分かっていながら、査察を受け入れよと迫ったのは他ならぬ周囲の国々。私がここで強調したいのは、実質的未来にはさして影響を及ぼすものでないのにも関わらず、それが受け入れがたい事柄であれば、自分との「異質性」の口実をひたすら求め、自らを安心させるためだけに躍起になっていることである。
 プロセスを踏むことは文明のあるべき姿なのは確かなことだが、自らがしていることを自分まで欺瞞を包むことはない、といつも私は思う。そう。きっと、折檻する母親も「教育のためには仕方ない」、浮気をしてしまった人も「この人を幸せにしたかった」、瀬戸大橋三本も作った人も「国家百年の大計」、おもしろく他人をつるしあげて報道する人も「知る権利、社会の公器」と思ったからなのだろう。まあ、枚挙にいとまがない。以前はそんな自分に対する欺瞞を続けている人をみると怒りを憶えたが、最近は、自分の周りにだけそんなことをする人がいなければ、と思っている次第である。


4月15日
 自分の好きなものに名前を付けることってありますよね。私の場合、仕事・趣味・生活すべての場面でPCが手放せなくなっているのですが、五年ほど自分のPCには名前を付けています。なにより、自分で必要な機能を検討して自作しているため愛着もひとしおというところでしょうか。過去五年を振り返ってみると「朔太郎(さくたろう)」、「アマテラス」、「雪風」、「サルタヒコ(現在使用中)」です。別に名前を付けている、といっても、マザーボードにサインペンで名前をこっそりと書いてあるだけなのですが、なかなか思いこみが変わるものです。
 どこかの本で名前は呪いの基本だ、ということを読んだのですが、確かにそうかもしれませんね。海上自衛隊の護衛艦の名前にしても旧海軍での活躍や思い込みに比例して、期待の掛かった艦艇に名付けているとしか思えないものがあります。私も過去を振り返ってみると「アマテラス」は雷ですぐにだめになってしまいましたが、「雪風」いろいろなトラブルに負けずしぶとく役に立ってくれました。(ま、これは分かる人には分かるでしょう。)
 あなたの愛する身の回りの者にはどんな思いを込めて名前を付けましたか?


4月14日
 他者に対し「ダブルスタンダードだ!」という非難を偶に耳にします。ま、各方面で基準を使い分け、都合の良いように自分の人生を回していくことはなかなか他者に対して説得力のあるものでもないように思えるのですが、他者の行動の選択基準が、実は「ダブルスタンダード」ではなく、単一の基準なのではないか?と、考えることも必要なのではないでしょうか。
 少し難しい話になりますが、経済学の分野では、古典経済学の時代は「価格」の決定は「需要」と「供給」の二つの要因である、ということからスタートしました。その後、色々な要因を考え出したわけです。同様に、他人を眺めていて、その行動の選択基準を当人の発言だけを信用せずに色々考えてみるのも必要じゃないかと思いました。多くの場合、少しも尊敬できるものではないかもしれないのですが、実はその人は「シンプルスタンダード」なのかもしれません。


4月13日
 私は月に二度は映画館で映画を見ているのですが、最近スピルバーグ監督の作品をみました。(『the catch me if you can』)あまりメジャーな映画は好きではないと思っていたのですがやっぱり彼の作品はおもしろい。テンポが良いので全作もそうですが二時間半から三時間見る者を飽きさせない。 なにより優れた点は観客の想像力にちょうど良いところで頼っているという点です。説明が多くなってしまえば魅力が失われてしまうが、少なくても訳が分からない作品になってしまう。その両者のせめぎ合いのポイントをつかむのがとてもうまいと思います。まるで、「な、分かるだろ?」と「文脈」から問いかけられている感じ。 映画に限ったことではないと思います。本にしても、舞台にしても、音楽にしても観客の想像力のちょうど「半歩先」を目指すことが大切なのでしょう。


4月12日
 今日は頼まれていた調べものをするために近所の図書館に行きました。久しぶりにパソコンで蔵書を探し、書庫から取り寄せ、索引をひき、コピーを取り、メモをしました。こんな作業、確かちょうど一年前くらいにゼミの論文を書いているときに何度と無く繰り返した作業です。大学院に落ちたときに、もう勉強するのはやめよう、やめたい、と思い専門書など大半をしまい込んでしまいました。そのときは全く悔いは無かったのですが、今日の作業はとてもとても楽しかった。私は常日頃勉強は今まで好きだったことは一度もない、と思っているのですが、こうして本をひもとき、新たなことを知り、先人のアイディアに触れることの胸躍る瞬間は確かにあるわけです。  今後どんな進路を歩もうとも、この楽しみを失うわけにはいかないかもしれない・・・とも思うのです。


4月11日
 はじめからコンセプトを決めてしまうとなかなか緊張するものですね。
 テキスト系サイトの仲間入りをするのは癪にさわりますが、二冊目の本を作る!というのが私の原動力になっているように思えます。あのとき「愛読」してくれた人はかなりの部分疎遠になってしまいました。前回も日々書いていると自然と読んでくれた人が増えたものです。この場合、ゼロから増やしていくというのはシムシティだったり、ベンチャーだったりの楽しみと同じです。「人数が増えること」と「他人に読んでもらうこと」というのは微妙に違います。前者は、実は他者との関係性を予定している訳じゃないんです。(増やすためには読んでおもしろいように書くのはもちろんのことですが・・・)
 テキスト系のサイトを読んでいてよく思うのです。後者の理由で書いている大半は偶然の共感しかリピータを増やす要因にしかならないと。


4月9日


 記念すべきコラムの再会です。古いお客様ならご存じでしょうが、私は1999年から2000年にかけての一年間、『おやすみICQ』という名前でICQを使ってコラムを書いておりました。なかなかに好評を受け、紆余曲折を経て、2003年2月に本になりました。詳細はこのコーナーを見て頂ければ分かります。そして、今日からまた、一年間続けてみようと思うわけです。前回は当初コラムとして続けるつもりはありませんでした。今回は始めから製本すること、コラム的なものとして始めるつもりです。そして基本コンセプトは変わりません。読んで楽しめる、というエンタテインメントの一環として書いていた。日常の話題をあれこれ拾い、若干の一般性、ほんの僅かな客観性が、みんなの未来を少しだけひょっとしたら見せてくれるかもしれない、ということを念頭にデザインされていたことは今になって自ら再読してみても確認できる。つまり、私自身の持論を展開しているわけでもないし、フィクションの可能性も多く予定されていることである。今回の名前は『議論の余地しかないかもしれない』です。
 どれだけ書けるか分かりませんが、今後よろしくお願いします。文体も、論調も日々変えて楽しめるものになるようがんばります。そうそう、今回もやはり、検索エンジンに乗せるのはやめることにします。迷い込んできてくれた人に提供してリピートとしてくれたらそれはもう望外の幸せと言うほかありません。


 



by kiyo