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■議論の余地しかないかもしれない■
-like a diary-

2003年7月

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7月31日
 昨日の続き的な話。  
 実は、「結婚は自分がハッピーになる手段。幸せを二人じめすることはハッピーかもしれない。ゆえに、結婚は幸せを二人じめすることによって自分がハッピーになるのかもしれない」という微妙な三段論法は、掲示板に書いた時は、とりとめもなく書きました。ところが、読んでくださっている方からの反響が大きいのです。意外でした。総じて考えてみると「二人じめ」というフレーズに反応してくださっている方が多いようです。そして、現実的には・・・、私が思うに・・・、というお話を戴きました。
 今は多少迎合的にというか、現実的・実効的な方向に修正しているのですが、三年前に書いていたコラムでは、まさに本来的・理想的なフレームを提供することに価値とニーズを感じていました。つまり、あるべき姿そのものを日常の忙殺からか忘れてしまった・忘れようとした綺麗で素敵だけれども、達成するには自分の日常からは絶望的なものを書いていたように思います。(それすら分かって書いていた。)最近は、より多くの人に読んでもらうには?ということから上述のような方針にしたのですが、やっぱり自分の幸せと直結して、更に、人生を根底からリセットしてくれるかもしれない幻想を持たせてくれてやまない「結婚」には、ピュアなあるべき世界を(あくまで私が考える、ということですが)書いてみた方が面白く読んでもらえるのかもしれませんね。ちなみに、私はそんな見果てぬ夢は大好きです。


7月30日
 なかなかの反響なのでコラムでリメイクしました。
 みなさん結婚したいですか?
 私はしたいかどうかを考えたことすらないのですが、多少気になるのは、自分が思っている結婚のイメージが幻想か否かということです。このホームページでも何回か触れましたが、やっぱり他者との関係について幻想を抱くというのは自分の人生の未来を含め、他人にも色々困ったことを引き起こすと私は思っているからです。
 結婚している人(同世代にせよ。上の世代にせよ)をみて、あ〜これが結婚なのか〜って思っていることが自分が実現できるのかどうか。これが結婚ね、って思っていることを自分がするかどうか、っていうことよりも、自分が結婚したらどんな生活をしたいか、することができるか、ってことを考えなくちゃいけないような気がします。そして、そのイメージは敢えて抱くとすれば、「自分が」ハッピーになる方途の一つだと思うのです。「自分が」と言っておりますが、とりあえず、ささやなかな幸せを「二人じめ」するのは、とても「自分にとって」幸せなことだと思います。私の先生は、大学の教員辞職して、それなりに収入は減ったけど、とても愛妻家で、年に一度か二度一月余りをポーランドで過ごすことを楽しみにしている四十代。それはもう「二人じめ」。「二人じめ」された幸せは、他人が羨ましくないし、他人にとっては羨ましいかもしれない。それが「二人じめ」の意。
 そんな「二人じめ」の手段こそ結婚にかもしれない。 ところが、そう思った時点でもう私は幻想に取り付かれ始めている。(つまり、最初に戻る。)



7月29日
 山岳遭難の話を聞いて今日は番外編。
 今回の事件では、父親の言うことを聞いてあまり動かなかったことが体力を温存することになったみたい。せめて山登りする時には、遭難の心得を事前に教育して欲しいものです。
 ずっと前になりますが山に登っていた私がずっと教えられていたことを紹介しようかと思います。
 
【動いちゃ駄目】:遭難でやばくなるのは、自分がいつ何処でルートを踏み外したかの肝心な認識が無いからですね。だから記憶を辿って移動する内にますますルートから離れてしまう。
【沢伝いに歩いちゃ駄目】今回の少年も沢へ添って歩けばいつかは道路に出るみたいに考えて歩いたと証言していますが、遭難者のいつものパターンですね。沢伝いに下へ下へ、尾根伝いに下へ下へと歩いてどんどんドツボに填る。下る分には楽だから、どうしても下へ下へと動いてしまうんですね。でも尾根の下や沢というのは、実は捜索隊にとってもアクセスし辛い所だし、沢の移動は、濡れた岩場を歩くことになりますから、非常に危険を伴います。  
【上を目指す】:自分が遭難したと認識して、どうしても動かざるを得ない時は、基本は上を目指すことです。
【ツェルトを常備しよう】:とにかくツェルトを持つこと。雨除けや体温温存になるだけでなく、広げれば上空からの大きな目印になるんですから。


7月28日
「難民たちの声なき声の積憤が国連を動かし、国際社会を動かしているということを忘れてはならない。全てはそこからはじまる。このような時代には、難民・避難民たちには明日を力強く生き、昨日より明日をより良く暮らすというささやかな希望と努力が必要である。今も、危難の下に置かれている難民が、もとある居所に戻り、隣人との対立解消に向けての歩み寄りを始めることを祈り、ここに筆を置く。」  
 恥ずかしながらこれは私が大学で最後に書いた論文の最後の段落です。ここで注目して欲しいのは「難民たちの声なき声の積憤が国連を動かし、国際社会を動かしているということ」という部分。最近、知性も実行する気もない人やエンタテインメントのためだけに、環境問題であれ、安全保障問題であれ、行政の構造的問題であれ取り上げる人が多い。(田中康夫、日垣隆、君塚良一等々)市民活動家、自衛隊員、海上保安官、麻薬取締官など、殉職しても日の目を見ず、ひっそりとしかし力強く職務と研究にあたっている人々の連綿とした成果に注目するにはそれなりの覚悟と能力が必要なのだと思います。声が大きいだけの人によって台無しにされることを最近よく目の当たりにしてそう思いました。


7月25日
 私はなにかと勉強というか調べなくてはいけないことが多いので、よく吉祥寺の大学の図書館に忍び込む。そして、余計な本まで手にとって読んでしまう。今日はこんな一節を見つけ、書き写した。
「一面からみますと、人間は生まれたときの無限の可能性が次第に縮小していく過程を経験していくもののようです。今日出席している若い諸君だって、ノーベル物理学賞の可能性はまずないといってよろしかろうと思われます。しかし他方、私の貧しい経験でも,われわれの生活は予期せざる可能性が拡大していくプロセスでもあります。私の行政法研究における行政手続法への関わり合いも、そのようなものの一つでありました。その意味で、諸君にはまだまだ残された広い夢、また、つくりだすことのできる大きな可能性を追求してもらいたいと思います。同様に、私ももうしばらく行政法学者としての私なりの見果てぬ夢を見ていきたいと思っています。機会があれば、諸君と夢くらべをしたい。」  
 こんなメッセージを受け取れる学生は幸せだと思うし、私も、高校・大学を通してそんなメッセージを数多く受け取ることが出来た学生だった。おそらく何十年経っても非才極まる私では師を超えることは出来ない。しかし、そんな期待に応えるような道にすべく努力したいし、しているつもりだ。周囲から見ればひどく主体性のない生き方かもしれないけれども、私にとっては切望してやまない道である。怠惰の中では隅に置いてしまいがちな師たちの言葉をこれを読んで思い出した。

(塩野宏「行政手続法制定への途〔最終講義〕」『法治主義の諸相』(有斐閣,2001))


7月24日
 昨日・一昨日と世界水泳をぼーっと見ておりました。最近仕事の関係でひょんな事からプロレス関係者の人(レスラーじゃなくて社員の人ね)と知り合う機会がありました。そんなことで、プロレスも偶に見るようになりました。(好きな友人が幾人かいるので基礎的情報はもうある。)中継を見ていると、プロレスと他のスポーツとは実況中継との関係が違うように思えてきました。
「W杯のゴールゴールゴールゴール!」もそうだけれど、エンターティメントはフィールドそのもので生まれるのであって、マイクの前のアナウンサーが演じるわけじゃない。そこいくと、プロレスは実況中継そのものにエンターテインメントがあるように思えてくるのです。野球の中継に(最近は巨人が強くないので見ていないが!)ゴマキがでていて、デーブ大久保がどうやって絡んでも興味なさげだったのに対し、それほど興味がないアイドルがプロレス中継にやってきてもそれなりに「絵」かなって思ってしまう。
 プロレスとごっちゃにしないで欲しいなーと古館伊知郎の世界水泳の実況中継をみていて思ったのです。


7月23日
 もはや、「実は」っていうほどのことではない程、周知されてしまっていることだが、私は結構以前から茶道をしている。何故続けているのか分からないほどなんとなく行っている。(もしかするとこれこそが長続きの秘訣なのかもしれない。)茶道をしていて気づくことはとても多い。そして、気づくことの大半は世間で思われている茶道のイメージとのギャップだったりする。例えば、世間では茶道の作法というのはとても厳格で個人差など生まれる余地もない、生まれるとすればそれは誤った作法のときだ、と思われていることが多いかもしれないが実はそうでもないらしい、ということ。車の運転と同じで、基本的には道路交通法に従うのかもしれないが、色々個人の嗜好や性格が入り込む「余地」は沢山ある。分かり易いところでは、お菓子の種類、抹茶の量・温度などだろうか。なんといっても、模倣して、模倣して、完璧に手本を模倣し尽くしてこそ、その「個人差」が際だつ。際だつからこそ真剣勝負があり、価値が高まる。はじめからフリーハンドではそうはいかないと思う。価値は不自由さから生まれる、というのは何度も述べてきたことだが、茶道をしていると、そんな価値を勝ち取った気分になる。「一日なさざれば一日食うべからず」といったところだろうか。


7月22日
(今日の話題はリクエストから。)
 少年犯罪の加害者の親のおわびは当然と発言する大臣がいるとか。やっぱりこの人の発言はおかしいと思う。本来なら、それはお上がしかるべく対応するから国民は頭を冷やせと言うべき立場にある政治家、その任にある大臣が、率先して「親は出て来い!」というのは、何かもう近代政治に於ける政治の役割が崩壊していると思う。そういうこと言うんなら、せめてバッジを外してからにして貰えないか?とか、そういう風潮を戒めるのが貴方の仕事でしょう?と政界やマスコミで声が上がらないのが不思議でならない。(本当は不思議にも思っていない。いや、こんな話題は予定調和的なものしか書けませんよ。) 連続幼女誘拐殺害事件を起こした宮崎被告の家族は、自家用車で移動しながら路上生活を続け、世間の記憶も薄れた頃、父親は自殺した。私たちの社会が、ああいう結末を望んでいたのだとしたら、この国の人々は病んでいると思う。(これは心底そう思う。)


7月18日
 今日は仕事の都合で、イスラミック・センターへ。イスラム教の団体であるらしい。(名前の通りといえばその通り。)その事務局の職員の人と話していたのだけど、なかなか格調高い英語を分かりやすく使う人だった。往々にして思うのは、アメリカ人の英語よりも、他の国のソフィスティケートされた人の方が文学的で格調の高い英語を使う。私が、「平和とは何かを彼らの教える」ということを表現するのに、teach them what is the peace と表現するのに対し、have them felt the peaceful atmosphere と彼は表現する。かくありたい、と思うほどの英語だった。ちなみに彼はイラク人らしい。(といっても、余談だが、イスラミックセンターは主にイラク人で運営されているらしいのだが、彼らは何十年もイラク本国と接触はないらしい。)言葉は通じればいい、という意見もあるかもしれないけれども、少なくとも私は格調高い文章や言葉遣いをする人はかっこいいと思うし、おそらくそれは私だけではないはず。別に、英語で格調高い言葉を話すことを目指すのは困難だし、勉強にはそれなりのコストがかかると思う。しかし、せめて日本語くらい格調の高さを意識しても良いかもしれない。「お手本」を探すのも、容易。見分ける能力さえ養ってこなかったというのはかっこよさとか、理想とかと縁がない人が陥る困難だと思う。


7月17日
 偶に、テキスト系サイトを見ていると、日々の生活の不満を色々連ねているサイトがあるけれども、それほど気持ちの良いものではない。(さらにいうならば、朝のワイドショーに毎日出ているコラムニスト・勝谷誠彦のようにあらん限りの罵詈雑言を日記で書き散らすプロもいる。)ま、それは人の悪口にもいえることかもしれない。ところが、優れたコラムニストは(例えば、私が思うに、小田嶋隆)、人を傷つけることのない悪口を言う。  こういうことはいろんなところに見て取れるもので、代表的なのはセクハラだったりする。いずれにせよ、この境界をしることは大人になることだと思うし、おそらく高校生のはじめ頃で分かっているべきものである。ところが、世の中を見渡してみると結構、いないもの。他方、小学生は中学生になればと、中学生は高校生になればと、高校生になれば大学生になれば、大学生は社会人になればと、そのような基本的なことを学ぶことを先送りする傾向にあるかもしれない。これは偏に大人への幻想に過ぎない。そろそろ、小中学生は大人たちの大半が自分と同程度であることに気づくべきだし、あれじゃまずいだろ、と危機意識を持つ機会をもっても良いかもしれない。


7月16日
 私の大学は四年間全学部が同じところで生活をしている都内では珍しい大学なのだけれども、今日、一年ぶりに用事があって行ってみました。四年間くらしていた街は一年足らずで様変わり。ま、良くある話と言えば良くある話。普通に考えれば、きっと私が暮らしていた四年間の変化は、今日私が感じた四倍の変化なわけで、日々くらしていたらその変化に気づかなかったから驚きを感じただけなのでしょう。いつ入学しようとも、やっぱり自分がしてきたときと同じように、勉強し、遊び、色々な体験をそこでしているんでしょう。偶に、古い木や電柱、ベンチ、ホテルの一室などをみていると、この下で、またここでどんなドラマがあったのだろう・・・と思ってしまう。自分が生活した四年間が、他の人と、他の年代と比べて特別ドラマチックであった訳じゃないんだなーって感じる。同じ事が同じ場所で繰り返されているだけなんだ。渋谷のスクランブル交差点は一度に三千人の人がピーク時には横断するそうだけど、井の頭線の改札を出た廊下からみえる人混み一つ一つが、自分が自分の過去をドラマチックだったり特別だったりと思いがちな人生を歩んでいるんだなって思う。こういうといかに人間の人生が些細なものか、ということをいっているように聞こえるけれども、そうではなくて、他人の人生を尊重することの大切さを感じると言うこと。例えば、自分が試験官になったときに、自分がエントリーシートを書いたときの真摯さが一枚一枚にこめられているのだ、という意識を持つことが大切なのだ、というようなことだろうか。


7月15日
 今日は、ひょんなコトからTSUTAYAに行って来ました。レジで会員券が切れているらしく指摘されて、少しわかりにくかったので質問をしました。すると、全く分からない。館内電話で店長を毎回呼び出す始末。  
 フリーターという就業方法は、隷属的な労使関係を強いて来た日本の会社社会の中で生まれたアンチテーゼ的なシステムなのだろうと思うし、正社員ならきっちり仕事するのかと言えばそうでもないけれど、このバイト諸君の異様なまでのスキルの無さを思うと、何が原因なのだろうと考えてしまう。日本の社会てあちこちガタが来ているよね。要は訓練なんでしょう。東京ディズニーリゾートの、あのバイト(確か8000人いるとか)とはとても思えないきびきびと仕事する人たちを見ているとつくづくそう思う。要はバイトの若者らが駄目なわけではなく、彼らに満足な訓練を施せない会社に責任がある。  
 ここで象徴的なことは、アメリカ資本で無くとも、アメリカからマニュアルを導入したファーストフード店や東京ディズニーリゾートは極めて成功している。少なくともバイトだから・・・・・・と思わせるような状況はない。でも純日本的なシステムの中で契約社員を活用するには無理がある。未だ日本の会社は、そこまでの経験を持つに至っていないということなんだろうな、と思ってしまいました。


7月14日
 何度もどこかで言っていることなのですが、都市部ではないところで私が仕事がしにくい理由として、いつもあげていることがあります。それは、日本語を言葉そのものの意味のまま理解できない人が余りに多いと言うことです。以前、私は仕事であるところに行く道を聞くために「あるところに行かなくてはいけません。ついては、道を教えて下さい。」と言ったところ激高する人がいました。何故かわかりますか?「行かなくてはなりません。」という表現が気に入らなかったようです。「行きたいのですが」というように言うべきだそうです。まるで嫌々行くような雰囲気を感じたそうです。仕事上指示されたことであればそれは義務であり、「行かなくてはいけない」ということに余地はないように思われます。  このような文字通りの意味ではないところの意味を気にする傾向は都市部よりも地方の方が多いように思われます。以前、地方にも実はスローライフはないと書いたのですが、これも原因の一つでしょう。そして、こういうことを気にしなければいけないのは女性であったり、若年者であったりすることが多いようです。彼らの可能性を不必要なところで、減じていることに気づくべきです。更に言えば、マスコミ人が懐かしんでやまない地域共同体・地域社会といったシステムはまさにこのことであり、効用よりも不要なコストを強いらるほうが多いのも気づくべきなのだと思います。


7月11日
 東京に出てきてくれた友達を案内するために六本木ヒルズに行くことになりました。お台場にせよ、六本木ヒルズにせよ、あれは都内に住む人は行くところではないと思っている私なので、完成後初めていくことになりました。人数が多くなればなるほどイメージされた「良いもの」は出来にくくなるものだから、完成度がもしかすると低いのかもしれない。でも、万が一あれが、コンセプト通りに作られたとしたら近代的というよりは、かなりレトロなようなに思いました。シンプルなロゴや、可愛い感じのマスコット、無機的なイメージ、重層的な吹き抜け構造、オリジナルデザインのブランド物・・・。十年くらい前から話題のスポットが出来るたびにみられる光景だと思いませんか?これはもはやレトロというしかないと思うのです。  
 展望台からのぞめる東京の夜景が後数年もしたら、もっとまばらなものになるとしたら、それは街が近代化したといえるのだと思います。


7月10日
 このHPはあくまで口コミで読者を獲得しようとこれでも頑張っているのだけど、色々なところで「kiyoweb.comです。よろしく。」と宣伝しているせいで、たまに電話があったりすると意外な人が「みてるよ〜」と言ってくれます。これほど嬉しいことはないのですが、ちょっと恥ずかしいものでもあります。さて、毎日続けているこのコラムを私はどういう事をイメージして書いているか紹介してみましょう。
 1. 特定の人を読み手に予想している。(あ!これ私に対して書いているの?と思   ったらその通りです。)
 2. 400字〜600字くらいで書いている。(そう。もちろん再び製本化することを予定   しているのです。)
 3. 相互のバックグランドの違いで、さまざまなニュアンスの違いが生じてくるのを   楽しむ。(若干の客観性と「お。」という感覚の塩加減を大切にしています) 4.    なにより、読んで楽しいようにデザインする。(これでも一応日夜考えているわ    けです。)  
 このようなコンセプトが成功しているとは自分でも思いませんが、実はこんな風なことを考えて書いているのか、と思って頂ければ幸いです。


7月9日
 『金スマ』で紹介されてからでしょうか?最近綾戸智絵というジャズシンガーが脚光を浴びています。17歳から渡米を繰り返し、乳ガンを20代で発病。克服した後、アメリカ人と結婚。あげくのその夫のDVに悩まされ、日本に帰国。数々の困難を乗り越え、母一人で息子を育て上げ、現在ジャズシンガーとして活躍中という彼女の世代としては比較的珍しい人生を送ってきた人。
 彼女の人生観や人生の選択そのものは全く否定する気はないのだけれども、その道程をいちいち紹介しなければならないものなのでしょうか。彼女だけでなく、例えばドミノ倒し世界記録に挑戦、オリンピック、などでもメディアに出なければより立派だと思いませんか。いつか勲章をもらうことを励みにする持つ人がいるそうだけれどもそれは本末転倒。勉強はしたいからするし、スポーツもしたいからする。その結果、栄えある成果が伴うのは尊敬すべきことだと思うのだけど、成果そのものをアピールすることによって、本人が何故その道を歩むことにしたのか、という哲学に疑問を持たれることになるんじゃないか、と思って仕方がないのです。更にいうならば、自分の経験が他人に生かされるというのは幻想に過ぎない。人生を終えた人はこの世にいないし、その経験は、その場所・その時間・その年齢・その生い立ちをもってして自らの経験になっているわけで、一般化などできないほどその経験は「特別」なものだと私は思うのです。


7月8日
 私は近所をジョギングしているのですが、最近足首に付けるウェイトを購入しました。1sずつ合計2sの重りを足につけて走ることにしたのです。実際に走ってみると、いつものジョギングコースが、3倍くらいに思えてくるのです。たった2sと思っていても、こんなに疲労が早まるものだとは思いませんでした。最後の800メートルくらいは歩くことにしているのですが、そのときウェイトを外してみました。なんと軽いことでしょう!もう1周できてしまうほど足が軽快に感じるのです。体重が2s増えるというのは、これほど体に負担をかけることなのだなーとも同時に思うのです。太りすぎは腰を痛めたりするということを聞いたことがあるけれども、そんなことをウェイトをつけてみることで体感できるとは。これもバーチャル体験なのでしょうか?とてもアナログですがなかなか有効なことだと思います。応用編として腱鞘炎になった場合、腰痛になった場合、アル中になった場合など結構簡単に再現できるかも。欠点は、痩せた場合、耳が良くなった場合、など一般にいうプラス成長は再現できないことでしょうか。愛犬の隣で寝てみると床が意外と響くので、彼が寝ているときはこっそり歩くことにしたのもこんなバーチャル体験の成果かもしれません。
 もっと応用編として塀の上を夜な夜な歩いて、途中で寝てみるのも良いかもしれません。猫の偉大さを「体感」できます。


7月7日
 月曜日は、メランコリー。
 火曜日は、スピリチュアル。
 水曜日は、ヘビー。
 木曜日は サッドネス。
 金曜日は、コケティッシュ。
 土曜日は、ロンリー。
 日曜日は、ドリーミー。  

 ラッシュアワー、気に入らないスーツ、コピーの山、ため息、待ち続ける誰かからの(誰でも良くなってる)メール。切り抜けただけの一週間。そんな何かに差し迫られた気分で一杯の一週間でも、探して夢見て答え出さなくちゃだめだよ。
 夢の途中歩いていることに気づいてみよう。理想をイメージして。
 いつか強くなれる。
 ため息?でも大丈夫。選んだのは君なんだから。
 Have a nice week! Do not be week!
 Your dreamed dream may be close to you.


7月4日
 ワイドショーを見ていたら、ある風水研究家が視聴者の自宅を訪問しアドバイスをしていた。「こたつを夏になっても出していてはいけません。季節って時でしょう。時はチャンスなんです。チャンスをつぶしたくなければこたつを出してはいけません。」というアドバイスをしていました。研究家がいうことには次のような三段論法なのだろう。「風水では時はチャンスを表す。時は季節を表す。ゆえに季節に合ったものを置かねばならない。」
 これを「風水では」という前提条件がなければとんだ与太話であるのに、この前提条件があれば、およそ西洋的科学では因果関係が認められないことを素直に受け入れてしまう。確かに、風水など東洋的な思考方法も心理学の分野などでは、このような象徴的な連想方法というのは有用である。いずれにしても、東洋的なものであれ、何千年もの漸化的・演繹的な実験と検証の成果のもとにそこに因果律を見いだしているのである。さて、西洋的な科学で良いから私達が何故、与太話かどうかを見極めているか考えてみよう。それは、多からずも、共通の知識を私達が共有しているからであり、よもや、今の季節感と仕事のチャンスとの因果を認めようとしないのはそこにある。テレビでその知識の程度も分からない人間が私達に全く縁のない学問の因果律を披露したときに、共通の知識もなしに納得してしまうのはどうかと思う。後に反省することもあるかもしれないが、少なくともそこでは「与太話」の烙印を押しておくべきではないだろうか。


7月3日
 最近海外に行ったとしたら、何に困るのだろうか、ということについて考えています。刺身、寿司、ウナギ、そば、等々これぞ日本食というものは実は海外で(特に大都市であれば)困ることはないのではないでしょうか。では、何が恋しくなるのでしょう。大戸屋の定食・吉野家の牛丼・ヤンヤンつけ棒(私が大好きな明治のお菓子)・まずくてレアなお茶のペットボトル(あれほどの種類のお茶を海外で売っているはずがないと思う)等ではないでしょうか。中途半端な象徴的なものことこそ日本で一番馴染みにある者だと思うのです。そう考えると、もはや「中途半端な象徴」ではなく、まさに日本の実生活を象徴するものなのかもしれません。さらにいうならば、その国々の象徴だったり生活習慣だったり思われているもの(例えば、アメリカのハンバーガー、韓国のキムチ、中国の太極拳等々)は、実は確かに身近なものかもしれないけれども、そこに住む人が本当に海外で欲するものであるとは限らないのではないだろうか、と思いました。
 あなたの日本人としての「中途半端な」象徴とはなんですか?


7月2日
 私は何かと眠れるときと眠れないときの差が激しい。眠れないときは一月くらい眠れない期間が続く。ところが、先週あたりから朝起きれないくらい眠い。二日に一度しか眠らなくて良いかと思えば、一日十時間ねても終日眠いときがある。今月は眠い時期に入ったらしい。自分の体や体調のことで不可解なのはこのように睡眠に関すること。例えば夢。心理学的にとても興味深い夢をよく見る。名前も忘れてしまった中学校の時のいじめられ学校をやめた男の子のことを思い出す夢であったり(私がいじめていた訳じゃない)、モンゴルの大草原で騎馬隊と戦争をする夢だったり・・・。体調が悪かったり、熱っぽかったりすれば、何が原因か、どうすれば良いのか分かるが、睡眠がとれなかったり、奇妙な夢をよくみることは一体どうすればいいのだろう。
 実は結構日々考えていることの一つは自分の睡眠に関することだったりする。


7月1日
 最近友人の誕生日プレゼントを選んでいたところ、私も同じ物を購入することにしました。それは電動キックボード。ウィ〜ンという音を発しながらジョギング程度のスピードで走ります。今まで車で行っていた近所が全て電動キックボードになってしまいました。コンビニも郵便局も全て。さして珍しい物でもないと思っていたのですが、なかなか目立つもので犬は見慣れる物に吠えまくるし、おじいさんはびっくりするし、小学生は羨望の眼差しでこちらをみるし、なかなか夜じゃないと落ち着いて運転できません。(夜は夜風がちょうど良いくらいに気持ちいい!)
「子どもの頃は良かった」と思う人は何かと多いようですが、私は大人になって良かった。好きな漫画は思う存分買えるし、収入の使い道のバランスが本と食事に90%以上費やしても文句を言われないし、何より夢を一つずつ実現することが出来るようになった。総じて見ればこれらは、「大人の言うことを聞かずに済むようになった」と言うことなのです。無駄遣いをして欲しくなければ無駄遣いをしないとどういう良いことがあるのか親(指導する者)はその背中で見せつけて欲しかった。目標は希望なんてものを変更させる力は親の言葉にはないようです。
 当然、私は大人になればこんな生活が出来るのだ、と自慢することにします。さて、寝る前に『20世紀少年』の新刊でも読んで寝ますか。




 



by kiyo