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■議論の余地しかないかもしれない■
-like a diary-

2003年5月

2003年4月


5月30日
 メジャーリーグで活躍するアジア系外国人は実は日本人だけじゃないみたいなのです。韓国人や台湾人も実は沢山いるのです。さも、日本人選手だけがアジア系外国人として大活躍しているように思ってしまいます。思えば、NBAで大活躍なヨウ=メイ氏のことをどれだけ日本の人は知っているのでしょう?あまりテレビでは報道されませんよね。(『iノート』のCMしてる人、という方が知っている人が多いのでは?)
 まさか、このこと自体に欺瞞に満ちたナショナリズムが入っているということなどなく、実際のところはわざわざ報道するまでもない、といったところが真相なのでしょう。しかし、どうしてイチローが活躍することが、「不況で鬱屈した世の中」(私はそんな世の中だとは決して思えないが)を「吹き飛ばす話題」であるという主張が何故なのか疑問でなりません。アナウンサーのコトバを一語一語聞いていると面白いことが多いものです。それはそうでしょう、エンターテインメントとして原稿を書いているに違いないのですから。


5月29日
「どうしてそんなことあなたに言わなくちゃいけないの?」
「全部報告しなくちゃいけないわけ!?」
「だって、そうだろ!?そういうことはみんな話していこうって約束したじゃないか!」

 やっぱさ、いうべきかもしれないけど、いえないことってやっぱりあるんだと思う。私は、そんなとき葛藤は確かにある。ある友達は、起こらずに冷静に「嘘や隠し事をやめよう」っていうべきだいう。 でもでもでも! そこを気にしないで、自分といる時間だけ相手だけを見て幸せを注入してあげるのも、男の子に期待して良いことかもかもしれないって思う。実際出来るかどうかわかんないけど、長い人生の中、いろんな人に出会う課程で、一人くらい自分の隣にそんな人がいてくれたら良いなーって思っちゃいけないかな。

「そうよね。そんな約束だったわね。私が悪かったわ。ごめんなさい。」


5月28日
 私は、1962年にライス大学で行われたケネディの演説を偶に聴いています。アポロ計画を始動させた、あの有名な演説です。

http://www.jfklibrary.org/j091262.htm

We choose to go to the moon. We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not only because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too.

 人類は、いつも目標を高く掲げ、それを必ず達成して来た。黒死病を克服し、二度の世界大戦を生き延び、相互確証破壊の恐怖に終止符を打ち、どんなに困難な状況も乗り越えてきた。平和と繁栄が訪れる日まで、力強く、弛まぬ努力を続けている人がいることが忘れてしまう、忘れてしまいたくなる誘惑は常に存在する。忘れてはあの人やこの人、さらには過去の自分の期待に応えることは出来ないと思う。


5月27日
 昨日は大きな地震がありましたね。私は高層ビルの24階で仕事をしていたのですが、となりの電波塔がぐらぐら揺れてこちらに倒れてきそうだったのでとても迫力あるものでした。
 地震がある度に思うことがあります。それは、「あ、だめ。今はお腹空いている。いま大地震は困るぞ」とか、「OK。今はお腹一杯。ま、あと五時間くらいは食べなくてもOKよ。のども渇いていないし」なんて思うのです。皆さんはそんなこと思いませんか?あと、徹夜で自宅の外で仕事なり活動をして疲労困憊なところに地震があっても「あー今はまずい。後にして。」なんて思うことがあります。どうせ、大地震に遭うならベストコンディションで、と願っているのです。  
 ま、何事も準備万端なときは何も起こらないものかと思いますが、(むしろ、そんなときは「起こった」といわないかもしれません)とりあえず、これからご飯を食べておくとしましょう。


5月23日
 竹中平蔵氏は、大臣になる前から延々と郵便貯金が民営化リスクマネーになることが市場対策の根幹である、ということを主張してきたのを私は憶えています。かれこれ、十年間くらいでしょうか。その是非は別として最近やっと郵貯が市場に流れるようで途方もないことでも延々と主張し続ければかなうものだな、と思ってみておりました。  
 私は仕事柄、様々な職種の経営者と話す機会があります。どこもかしこも、民間の取引など実は眼中にない人がなんと多いことか。それだけ「官」との取引は「旨味」が多いのでしょう。いや、確かに旨い。ほぼ言い値で良いわけだし、不渡りが出る心配もないわけですからね。日本の年間GDPは約500兆円。国家予算が80兆円。簡単すぎるかもしれませんが、16%も市場取引の内そんな「旨味」のある商売をしているということでしょうか?(是非もっと精密に計算してみたい!)  
 事業計画や人物を見抜くという商売の基本をとばして楽して商売している人がこれだけ多いのです。リスクマネーの環流を制度として達成しようとしている人が一方で、不況下生き残るのはこのような怠け者たちなのだと思うと絶望的な観があります。


5月22日
「俺に隠し事あるのか?」
「あるわよ。大きいことから小さーいことまでね。」

「あ、あるのか!?俺に隠し事」
「だからあるわよ。大きーなことからちいさいことまでね。」
「なんだよ!?俺はないぞ。全然ないぞ。」
「そーね。そんな感じだものね。」

「じゃ、いってみろ。教えろ。そっちの大きい方だ。」
「いいのね。驚くわよ」
「怖い。たんま。小さいのからお願いします。」
「いいわ。小さいのね。」
「あたし、君ともう一緒にいられないらしいの」

「いまのが小さいの!じゃ、大きいのは?」
「残念だけどまだそれは教えてあげられないわ。簡単にはいえないから隠してるのよ。」

「ま、まてよ」
「なんであの内定の手紙を隠していたのかって?いわなくてもわかるわよ。あとから走り寄ってきて隠し事あるのか?ってきかれちゃね。女の子だったらそんな単純な行動にでないのよ。うまくタイミングを計って、なんでも知ってるよーな顔して問いつめるものなの」

「・・・・・・。」

(こんなぎりぎりまで隠さないでいれば良かったけど、言ったら終わっちゃう気がした。まだまだ心配だけどもーおしまい。)

「あたしね。○○○なの。」
「さよなら。いままでありがと。」

(しってたよ。そんなこと。それでも僕は君といたかったんだ。)


5月21日
 私達は、残念ながら理由を見いだすことは出来ないモンスターを生み出す可能性があると思う。あまりにもありふれた家庭環境がそこにあっただけ。その中で、モンスターが生まれて育って行く。(家族も警察も、みんな彼がモンスターだということを解っていたか否かの違いはあるかもしれないが。)本人も、恐らくは自分の人生が破滅していることを自覚していた。そしていつかは、それがピークに達して爆発することも解っていた。そしてそれは阻止できなかった。  
 遺族はもとより、社会や国家は、理由を欲する。原因を探り、次の凶行を防止する責務を負うから。でもそれはひょっとしたら、自然災害にも似た、人間という自然環境の中で、一定の確率で出現する災害のようなものではないかという諦観でもあったりする。
 世間は、モンスターをこの世に生み出した親としての責任を問うて、形としての謝罪文を書かせる。もちろん、父親が父親である限り、彼の責任が免責されるものではないと思う。自分が同じ立場にいたらと思うと、もはや一家心中しか無い。せめて、息子を殺すのが父親としての社会に対する務めだろうと私は常々自覚し、また覚悟している。
 しかし、そこにあるのは、マスコミという予定調和のモラルからの解放感しかないのかもしれない。


5月20日
「欲しがりません勝つまでは」
「星がありません、此の街で」  
 上の二つはこのHPからリンクもしてある友人がやっているバンド『もののふ』の『欲しがりません勝つまでは』というナンバーの歌詞の一部です。実はこういうレトリックは私は大好きです。毎日文章を書いている私としてはこのような「技」をちりばめられる文章が書ければいいな、と思うものでそれなりに評価しています。音楽にしても、文章にしてもこんな小さな基本の積み重ねだと思うのです。むしろ、私としては全ての仕事についていえることかと思います。才能が必要なのはごく僅かであって、基本の積み重ねで何とかなる部分がなんと多いことか。才能無きものとしてはそこに若干の救いを見いだしているのですが、なにより、そんな「基本」は扱える人間がこのようにプロ以外にいることは気をつけなければいけないことだと思います。基本を吸収するにはやはり本物に触れるのが一番であり、その基本に簡単に触れられることができる社会は豊かさの象徴であるように思います。
 基本を積み重ねる「技」が一部のプロだけのものではないだけに、プロの質も向上し、我々を楽しませてくれるのも期待できますしね。


5月19日
「正直な所、国内での感染爆発を阻止できるかどうか私は大きな疑問を持っています。都会人は、田舎へ帰省してしばらく避難生活を送ることくらいは覚悟しなければならないかも知れない。」  
 あるサイトのSARSについての記事です。私は特別な死生観をもっているわけではないし、東京生れ・育ちについて特別の感情を持っているわけではないのだけど、この記事を読んで、SARSで死ぬのはイヤだと思いました。犠牲者の中に一緒くたにされたくない、というのが一番の理由でしょうか。その他、危機が去った後の、空いている都内をみてみたい、なんていう不謹慎な好奇心もあるかもしれません。
 ライフラインが止まるかもしれないとしてもまだまだ先のことでしょうから、アヒル型のマスクと使い捨て手袋、保存食、ガスボンベなどを一月分購入することにした私です。田舎を持たない私が感染爆発の中で生き残りたいので最低限の備えだけは、と思いました。


5月17日
 一つエポックメイキングな作品が出来ると延々とそれを焼き直して作品を続けるのは本当にどうかと思う。私は、ほとんどアニメは見ないけれども、偶に深夜にみてみることがある。いずれもどこかでみたような感じ。やっぱり、徹底した謎の存在の敵、頼りにならない主人公、漢字表記のコマンドセンターやコクピット等々。私が高校一年生の時に流行ったアニメの焼き増しを延々とテレビで流し続けることに疑問を感じずにはいられない。  
 ちょっと前に、ヒット漫画をドラマ化していることの多さを書いたけれども同じ事なのだろうか。テレビ媒体で流されるコンテンツの多くは、他で成功を収めたか、以前成功したもののどちらかの焼き増しに過ぎないものがあまりにも多い。深夜テレビにしても、ずっと前は、延々と人間将棋のようなものを流している時代もあった。ところが、今は全て面白企画を種類を変えて流し続けている。「勝ち馬」にのらなくてはスポンサーが付かないのか、企画が通らないのか、新たなジャンルを生み出すことを怠けているのか。一日数万ヒットする個人サイトを作り出す人材をすくいあげるだけの制度は情実人事を繰り返しているテレビ局には無いのでしょう。そう考えるとまだ漫画業界はましなのかもしれない。


5月16日
 今年はちょっと不安がありますが、私は巨人ファンです。私のいくつか上の世代は長島や王といった選手が神格化されていますが、わたしの世代にとってのヒーローは原辰徳だったように思えます。少なくとも、私は原辰徳が大好きでした。
 監督になった彼をみているととても寛容で、選手の希望に期待をかけていてくれるように思えます。職人技のような「先発ピッチャー道」を極めようとしている桑田をやはり先発で起用し続けていることも彼の寛容さだと思うのです。自分の希望する舞台で活躍の場を与えれば、それなりに人は期待に応えてくれるのかもしれません。なによりも、成功した成績のみを評価し、原点主義ではなく加点主義を取ることも大切なのでしょう。実はこれは、欧米的な経営手法です。日本的経営は「終身雇用」・「年功序列」・「企業内労働組合」という三つに集約されるそうですが、それほど欧米的経営システムと日本のそれとは対立するものではないように思えるのです。二項対立の構図はわかりやすいものですが、本当に対立するものであるかよく見分けなければいけないと思います。
 ま、そんなことは抜きにして、今年の巨人も頑張って欲しいものです。


5月15日
 ネット世間からの批判を「匿名」というキーワードを持ち出すことによって、一刀両断にする人々が実に多いけれど、未だかつて、論理として筋が通った匿名批判というものに私は一度もみたことがない。  
 プロのマスコミ人の側に、実名でもってわれわれは物を言っているのだという、ただそれだけの事実をもっての奢りがあると思うです。でも名前を晒すって、そんなにご立派なことですか?実名でもって創価学会を批判するのはご立派だと、私は無条件に敬意と賛辞を表するけれども、無名であるが故に著者名が実名かペンネームかは解らない。私達は、そこに書かれた文章をもって著者のバックボーンに興味は持つけれども、その人物が匿名か実名かなどということが、その作品内容を評価することに某かの影響を与えないと思うのです。  
 そこに書かれた論説を批判することなく、十把一絡げにただ相手が「匿名」だからと攻撃するのは、これは思考の停止に他ならない、と私は思えてなりません。


5月14日
 私も例に漏れず『プロジェクトX』は好きなのですが、いつも思うことがあります。困難なプロジェクトに挑んだ人が立派で尊敬できるのは確かなことだと思います。ただ、このようなプロジェクトに優秀な人材が供給されたこと自体は「奇跡」だと思うのです。
 仕事の内容や結果に対して相応の評価(この場合、賃金の他、尊敬や職業の民度など様々に考えられる)があることこそ資本主義かと思われます。ところが、現在、政治家しかり、医師しかり、スチュワーデスしかり、内容や結果に対して過分の評価を得ている職種がある一方で、『プロジェクトX』で紹介されている職種は大半は報われているとは思えない。 すると、プロジェクトに人材を供給する唯一の誘因が自己満足と言うことになるのでしょう。ところが、自己満足をもたらす価値観は唯一の価値観を教え続ける教育ではあり得なくなっている。(そして、その価値観の中で楽しく暮らせる人も実はごく僅か。)最早、困難なプロジェクトに優秀な人材を供給することは「奇跡」でしかなくなっているのです。
 報われれず、満足も出来ない絶望的な職種に頼り、更にそこに優秀な人が配されるだろうという「奇跡」に頼り続ける社会の危うさを感じずにはいられないのです。


5月13日
 食べることが好きだと言うと、「何か良い店があったら教えて」とよくきかれるんです。でも、この質問って、困りませんか?相手の趣味もわからないのに、おいしい料理店って言われても・・・。もっと困るのは「私も○○を食べてみようと思ってるんだけど、どこにいったらいい?」という質問です。食べなくて良いのでは?、と答えたくなります。私は他の人に勧められても、ほとんどそのお店に行くことはありません。自分の価値観もあまり信用してませんから、他人の価値観もそれほど信用できるものではない、と思っています。
 私は好き嫌いは少ない方だと思うのですが、やはりいくつか食べられないものがあります。それは「おでん」と「ロールキャベツ」です。結構、珍しい嫌いな食べ物かと思います。そうはいっても、ピーマンが嫌いな子どもを私は見たことがないし、松茸以外のキノコ類が嫌いだ、という不思議な嗜好の人もいることですから食べ物の好き嫌いなど文字通り千差万別なのでしょう。
 結局のところ、「自分で面白そうなものを探す」という能動的な姿勢が見えないのが嫌、ということなのかもしれません。それは、本でも、映画でも、学問でも、スポーツでも、同様のことがいえると私は思うのです。


5月12日
 NEWS23で4日間、スローライフ特集というのをやっていたんですけど、皆さん見ていました?  
 たとえば、初日は漁業に生きる地方人を捉えて「スローライフだ」。二日目は、沖縄へ行って「スローライフだ」。もちろんれいによって、障碍者を何組も登場させて「スローライフだ」という全くパタナイズされた作り。  
 でもさ、この人たちは田舎の生活がどんなに忙しいか全然解っていないんじゃないかと思う。隣近所親戚との付き合いに縛られて、都会とは全く異質なビジーライフがあることをまるで解っていない。障碍者にしてもそう。健常者ならほんの数秒で済む日常の作業を四苦八苦しながら片づけなければならない障碍者にスローライフなんぞあるわけ無いでしょう。私は東京生れ・育ちだけど、田舎にも障碍者にもそれなりに関わってきて、みんなのんびりした生活などしていないことを学んだ。  
 凄い傲慢だなと思うのは、田舎のしがらみを捨てて都会へ出てきた人たちが、いつのまにか自分がなぜ田舎を捨てたのか?を忘れて、「田舎のスローライフは良いなぁ」と白々しい番組をつくっている。この矛盾を感じないんだろうか。


5月9日
「いまある友人たちとの関係を惜しみ、未来について憂いを持つことは間違っているように思える。人と人との関係の歴史・未来は同じ町で自分自身の建物を同じ町で一生涯かけて作りつづけていくようなのかもしれない。人は、その日常の中で、人格など自分自身をつくり続け、そして友人も自分の隣で彼(彼女)自身をつくり続ける。そして、ふと顔を上げたときに屋根の上から隣を見てみると自分とはまた違った魅力的な建物(友人)がいる。このことこそが素晴らしいのであって、常に隣を見つづけ、一緒になって同じ建物を作りつづける事は間違ったことなのかもしれない。更にいうならば、数年、数十年の月日がたっても、やはり、近所に自分のそれではない、彼(彼女)の家が前見たときよりも更に魅力的なものになり、笑顔でそこに迎え入れてくれるとすればこれこそが最も素敵な人との関係なのだと思えるようになってきた。」  
 少し長いがこれは私が大学を卒業式の時に書いた文章である。(『特別企画』参照) あのときはしっかりこのような覚悟をきめたのに、友人が自分の道を築き始め、それが私の道とは今のところ相容れないものであった場合、この覚悟が揺らぐ。
「出会ったかけがえのない友人たちとこれからの未来を歩むことができる幸せと勇気に感謝しながらここに筆を置く。」と書いた私は、彼の人生を祝福してくれるに違いない。  
 でも、今のところは、悩みはつきない。 何について悩んでいるか悩むのを。


5月8日  
 私もそれほど若いとはいえなくなってはいるのだけどさすがにショックなことが起きた。これまでも一部の知り合いが結婚するという話を風の噂で聞いたことはあったけれども、小学校に上がる前から親しかった友人が結婚するとのこと。共に育っただけに、なかなかに色々考えることがあった。恋人がいる相手のところにはすぐに遊びに行けるのに、結婚した相手のところには遊びに行きがたく感じるのは何故なのだろう。  
 家庭を築く、知らない誰かと暮らす、子どもを育てる・・・・・・。そんなことをあの彼がしはじめると思うと、これは受け入れるのに自らの成長が必要だと思った。イメージとしては、彼の周りに生け垣ができたようなものだろうか。内側から見れば自然の一部でバリアでもなんでもないのだけど、外側から見ればかなりバリア。そこに一抹の悲しみを憶えてしまう自分を何とかしたい。  
 初めて自分の部屋を持つような、親離れをするような、そんな人間に必要な成長の段階にある成長が必要だと思った。  
 そこにあるのはある種の惜別。


5月7日
 ゴールデンウィークは発掘作業を続けていた私です。(片づけ)  
 私の机の一番上の引き出しの中を整理しようと思ったのは何故でしょう?別にコレといって意気込みがあったわけではありません。ところが、なんとなく片づけを初めて本当に驚いた!!なんと、中に入っていたもの、配置、全てちょうど10年前のままでした。それが、あんまり使わない収納の引き出しの一番下、なんていう場合であれば、別段驚きはしないのですが、いつも使っている机の引き出しの一番上。一番便利な場所が10年から変わらない・・・。もちろん、普段使うものが入っていたわけではありません。10年前から使っていないものばかり。むしろ開けることすらまれ。(そして、片づけは10年ぶりというわけではなくて、たまたまその引き出しだけ手つかずだったようです。)例えるならば、片づけようとすれば10分で片づけられるのに、玄関にドアが開かないほどの使わない荷物を置いておいたようなものでしょうか。まさに、灯台元暗し。  
 効率性を阻害する過去の遺産は気づかないところに多数存在する、どこでも聴くような教訓を大掃除で実感するとは思えませんでした。


5月6日
「あのころ描いた自分の未来はこんなものじゃなかったに・・・。」
「どこで何が私の人生を狂わせたのだろう・・・。」  
 こんなふうにいつも自分に問いかけている人って多いのだと思う。私自身もそうかもしれない。
 自分の努力や成果や希望が正確に反映される人生ならば、果たして自分はうまくいったのだろうか?とも他方で思う。  
 自分の努力や成果や希望とは関係ないところで幸せが訪れることも思えばあったような気がする。(棚からぼた餅)  
 客観的には、あるときは「得」して、あるときは「損」してるのだと思う。(バランスがとれているかどうかは別。)かといって、「損」を受け入れることはできない。どうしてこうなっちゃうのだろう・・・、実はそう思えるときはまだ、幸せかもしれない。過去のハッピーを心の中に残していられるんだもの。「得」したときの味を忘れたとき、「損」の意味は拡大され、過去の希望の所在すら失われる。


5月3日
 そろそろ癒されるのも疲れない?癒され疲れっていうか・・・。
 もう出てくる商品・作られる施設みんなコンセプトは「癒し系」。癒され疲れてまた癒される?この期に及んでまだ癒されたい?そんなに私達のいる社会は荒んでいるとは思えない。過去よりも未来の方が必ずしも優れているとはいえないとは思うけれども、少なくともここ二十年を見る限りよっぽど過ごしやすくなったと思わない?欲しいものはみんな自宅で買えるし、公害は少なくなったし、税負担はより幅広く薄くなったし、人間関係だって携帯電話・メールで意思疎通が簡単に、家電製品はみんな省エネ。様々な脅威があるって?戦争はいつだって世界のどこかでやっていて、自分の家が前線の後方だったのは昔から一緒。実際に、巷間騒がれている「脅威」とやらが、アナタの日々の営みの中で疲れさせたことがある?具体的にストレスの原因なんてものは、実は騒がれているものの中にはなくて、今も昔も変わらないものじゃないんだろうか?
 癒されたくなる幻想はそろそろ晴れてきても良い。


5月2日
 私は自作のPCを使っているのですが、自作PCの分野で「静音化」というジャンルがあります。CPUファンや、ケースファン、ハードディスクの回転音など、PC内部から発する音をいかに静かにするか、ということに血眼になっている人たちが一部にはいるのです。 静音化グッズの専門店まであるほどです。その手段は多様で、ファンを止めるネジにシリコンで出来たワッシャーをかませたり、ケース自体に防音材と防振材をサンドしてはりつけたり・・・。
 最近、静音化求道者の友人が面白いことを言いました。
「まぁ、耳栓すれば、事足りるんだけどね。」  
 こういう逆転の発想で一瞬のうちに問題解決できてしまうのに無駄なことを延々とやってのけるのが人間ならではであり、それこそ「趣味とは何か」の神髄であるような気がします。豊かな社会の中では、生きるため以外にエネルギーを注げることこそが人間らしさであり、趣味とはまさにこのことだと思うのです。仕事のストレスを発散するための趣味とは実は趣味ではないと思いました。


5月1日
 実は、私は二十歳になってから手帳を持たないことにしている。予定が混雑してきたら、メモを貼り付けるなどするだけだ。忘れる程たいしたことのない用事ならそれで良いかもしれない、という理由もあったし、いつも頭の中で予定を反復しておこう、という理由もあった気がする。ま、前者は私の日常のスタンスそのものなので身近にいる人なら頷いてくれるかもしれない。
 後者の理由は実はピッチャー桑田に習ってのものだったりするのは誰も話していない。私は彼の十年来のファンで、それなりに言動を追ってきた。彼は、先発ピッチャーとして、ゲーム全体の組み立てを日常終始考え、当番日にむかってスケジュールの組み立てをしているという。デフォルトでかなり無口な私が人と会うときにそれなりに話をするのはこういうわけである。仕事にせよ遊びにせよ、事前に実はかなり準備とシミュレーションをしていたりする。まま、その準備は失敗することは多々あるのだけど・・・。
 桑田に見習っているところの話はまだまだあるので、またの機会に。



 



by kiyo