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♪おとなとこども♪

・主催者(kiyo)からの挨拶   
 ちょっと遅くなってしまいましたが、kiyoの二十歳記念企画として「おとなとこども」ということについてみなさんに自由に寄稿していただいたものこうして編集して発表するに至りました。協力していただいた方々本当にどうもありがとうございます。私自身の「おとなとこども」についても掲載しました。  
 こうしてみなさんに語っていただくと人それぞれに抱く思いが違うことが分かります。本当にどれも素晴らしい意見ばかり。様々な視点の中で本当に大切なことはこうして考えてみることだと思っています。他人に言われて気づくことがあるなら、自分で言葉にしてみて自分で気づくことだってあるのではないでしょうか。  
 あなたの「おとなとこども」はどんなイメージですか?まだまだ寄稿募集していますので是非メールで寄稿していただけたらと思っています。  
 それでは寄稿者の方たちの「おとなとこども」お楽しみ下さい。感想やご意見などありましたらどうぞ掲示板やメールにして寄せて抱けると幸いです。


・寄稿してくれた方々(順番は寄稿してくれた順に下から並んでいます)
 平井雅貴さんsuezoさんjyoさんぴあのさんpopoさんちーさんあすかさんまーのまいさん翠さんrくん深沢裕貴さん饗場貴史さん阿部美菜子さん津村政孝さんるっぱさんかねさん天使さんkiyo


平井雅貴 22才・学生(法学科)・男性
北海道出身。kiyoの大学の友達。
   おとなとは・・・こどもを羨ましがっている人    
   こどもとは・・・おとなになりたがっている人    

   おとなとは・・・かつての思い出に浸ることができる人    
   こどもとは・・・将来何になるんだろうかと考えることができる人    

   おとなとは・・・私はもう・・・という人    
   こどもとは・・・今青春してるよ!って思っている人    

   おとなとは・・・・・・こどもとは・・・・・・  
 
 結局僕は思うんです。おとなもこどもも本来さかいめなんてないんです。いま は法律が僕らの境目を決めるけど、昔は結婚すればおとなだったり、子供を産めばおとなだったり。ほら、よくいうでしょ。「君ももう所帯を持って一人前だね。」って。    
 もっと前だとー、抜歯してみたり、割礼してみたり、所によっちゃあ、バンジージャンプだったり・・・。結局、昔から人々は何とかおとなとこどもを分けてみようとしたみたいです。でも、一度としてみんなが納得するよう、うまく分けられた人はいなかったんですよね。  
 それってどういうことかというと、境目はありませんよってこと。  
 だけど人は成長していくんです。成長していって、「ああ、僕っておとなにな ったのかな?」って思えたときに確実にものの考え方とか発想の仕方が変わっていってるわけですね。で、そんな積み重ねが多くなっていくとまわりの人たちに「あいつって、おとなだよなあー。」といわれたりするわけです。歌の歌詞なんかにもあったりしますよね。「いつのまにか〜どうして・・・。」という言葉。  
 だからきっと僕らはおとなになっていくんですけど、いつからだよ、とはいえないわけです。  
 ただ、おとなになったんだよっていえる目安みたいなものはあるんじゃないかなーっておもうんです。小さな子と一緒にいたりする機会が多い人にはわかるとは思いますが、「ああ、こんな考え方するんだなー。」 って思わされること。  
 小さいときにはできたことが今できなくなってしまってる。となりのトトロがみえなくなっていたり、お化けや妖怪を信じなくなってしまっているという事実。  
 もっともっと現実。  
 小さいころはタンポポが、腰まで伸びてて、アカツメクサの蜜の味や、土の匂 いがもっと近くに感じられた。さらにさらに真実。小さいころには趣味はなく、すべてが遊びで冒険で勉強という世界。  
 僕がこんな風に言って、そうかもってみんなすこしは思うはず。
 それって僕 は、ぼくたちがおとなになってきてることだとおもうわけなんです。
                               ・・・・・・ど うです?  


SUEZO 26才・SE・男性
愛知県出身・kiyoのネット友達
 大人と子供、そもそもこれに違いがあるの?
 体格の差?
 それとも精神的もの?
 生物学的に。。。と比較すれば山ほどある。。。
 ではつまらないので、ふつーに考えましょう。人は誰しもいつまでも子供の自分を追い求める者です。なぜそう思うかって?それは、「昔は良かった」と言うからですよ。 けど、本当に追い求めるだけなんでしょうか?
 私はそうは思いませんけどね。 絶対子供の精神(心)を持ち続けているものなんです。大人になるとそれがどれだけ、外に出るか(自制)出来るかが変わるだけですね。 この自制出来る人、出来ない人というのはすこし難しい。 そもそも子供の心ってなんでしょう。悪戯をしたり、いけないことをしたり、それこそ、昔やったことでしょうか? ちょっと違いますね。
 理由はこうです。 悪戯をしたり、いけない事をしたりする本当の理由はなぜでしょう。それは 悪戯等をすることによって起きる、その現象に対する好奇心ではないでしょうか? その好奇心を満たしたいが故に、そんな行動をするのです。この行動をいかに、 自制するかが、大人と子供の違いなんですね。
 子供の場合は、理由が言い訳だったり、 屁理屈だったりするわけです。 こういっている私自身、まだ子供なんですけどね!


Jyo 21才・学生(工学部)・男性
福島県出身福島県在住。kiyoのネット友達。
 ここで質問です。
 あなたは自分が大人であると答えますか?
 私は人間は本質的に子どもだと思います。
 大人・子どもという判断は他人が決めるものであって、自分自身には全く関わりの無いもの。
 その言葉には熱く語るほどの意味はありません。 ある意味、コンプレックスを象徴する言葉ともいえるのかな。?
 では、なぜ人間が子どもであるか。
 それは、その言葉に含まれる向上性の意を強調したいからです。
 言葉って、本当に難しいですね。(水野○夫 風)


ぴあの 22才・OL(事務職)・女性
東京都内在住。kiyoのネット友達。
 いろいろ考えた挙げ句、今私は21歳だけれども家の祖母や祖父、父から見て(母は、私が1歳のときに亡くなりました)まだまだ子供だと思います。
 色んなことを見極めている祖母達に比べて、私のやることはアマチュアな感じがします。
 例えば、何かを判断するとき、私達は、自分で考えて行動したときに、あとで、
 「その考えはやめなさい。あとで、困る事が起きるから」
 って、予言される事ってよくありませんか?
 私の場合この、予言を聞かずに自分の思ったこと通り行動すると後でよく、痛い目に遭うことが多いです。  だから、最近は自分の考えを行 動に移す前に本当にこれで良いのか考え直します。そして、自分が納得した上で アマチュア的だけど行動に移す事が多くなりました。
 やっぱり、本当の大人という人は自分の行動を良く考えて理解してそのとった行動にちゃんと責任がとれる人の事を言うのではないかと思います。だから、自分のとった行動にちゃんと責任がとれない人は、まだまだ子供だと思 います。


popo 23才・大学生(経営学部)・女性
東京都内在住。kiyoのネット友達。
 大人と子供の境目。それは難しいのではないかと思う。  
 今の自分(23)が果たして大人か子供か。  
微妙だな。(笑) 親は都合のいいときに大人だ、子供だ。っていうが、まぁ、自分逹も好き勝手に子供 だ大人だと使い分けてる。 これがこの年齢の面白いところではないかと思う。
 最近、少年犯罪が多く増えており、かなり思い犯罪を犯しても、少年法があーだこーだと顔や名前を伏せておく。確かに、さいさきの将来の事を考えれば、確かに必要な事であるとも思うが・・・。果 たして、少年だから、実年齢が20未満だから。 それで許されるものではないように思う。


ちー☆彡 20才・女性・大学生(法学科)
愛知県出身。現在都内在住。kiyoの大学の友達。
 コドモと大人ですか・・・。うーん。ムズカシイ。
 その定義は、人さまざまだと思います。でも私はコトバで定義できないな ぁ・・・。うーん。私の「感覚」では、まだ自分はコドモの気がするー。でもなんか、私がコドモって言っても、そこらへんの分別のない女子高生のような子ども とは違ってて。それは自分が女子高生だったときも、そのへんの女子高生と私は違うかもーって思ってたんだけどね。
 あれ?理由になってないね。
 まぁ、分別の あるコドモだっているぞってコトかな? なんていうかなぁ、一応親が死ぬまではコドモなんじゃないかとも思ったりする し、子どもを産めば大人になれるかなーとか思ったりする。そうそう、「親は子 どもと一緒に成長するんだ」っていうことを誰かが言ってたなぁ。子どもが5歳 なら親も5歳。子どもがハタチになったら親もハタチなんだって。結構、そうか もなーと思う。
 あるイミで私はコドモらしさを武器にしてるかも。外見が小学生に見えるらしいから、かわいくコドモっぽくしてると許されるかなーとか。あれ?だめ?もうム リ? あとね、周りの人からコドモコドモって言われると、「そうなのか?そうか ー。」って納得してしまって大人になろうとしないかも。というか、自分のでき ないことに対して、「このことができないのは、みんながコドモコドモ言うから だよーう」的な責任転嫁をしたりしちゃうのですね。
 ああ、そうだ。私に対して、「コドモー」とか「お子さまー」って言うのは禁句で した、昔。高一の頃それを理由にして大学生にフラれたんで・・・。(笑)「まだコドモだし・・・」ってね。そんときは「なんで?」と思ったね。「私がコドモなら、あなたもコドモなんじゃないの?」とか「え?高校生って大人じゃないの?」とか「大学生になったら大人なの?」とか。ぐるぐると考えはめぐってさ ー。彼にとっては単なる言い訳にすぎなかったんだろうけど、それがひっかかってね。悩んだよ、コドモについて、いろいろ。そして「コドモ」と言われること にすごく拒否反応を示してた。(笑)
 でも、今は自分がコドモだって言われても 全然平気だし。むしろちょっと嬉しかったりするかも。無責任さを容認されてる みたいで。はは。まあ、こいつに重大なコトは任せられないぞってのは置いとい て。(笑)前に書いた責任転嫁の話とつながるね。
 大人になったぞってのはさ、生きてるうちにはわかんないのかもしれない。振り 返って、過去と比べて成長したなあってのがわかるだけで、どこから大人になる かなんてわかんないと思うなー。逆に言えば、それが大人になるってコトかな ぁ。いきなり「大人」って言われても困ります。(笑)準備してても困るだろう けど。(笑)だってさ、思い描いてた中学生、高校生、大学生って、感覚的にだ けどもっと大人なカンジがしたもん。先輩とか見てると。でも実際の自分は「あ れ?全然ちがうよ?」ってカンジで。こういうのって死ぬまで続くんじゃないか なーと思うのです。
 10代最後の日に。


あすか 21才・女性・大学生(法学科)
埼玉県在住。kiyoの大学の友達。
アスカが思うに・・・

明日の事を気にして、夜を徹して将来の事を語り合わないのが大人。                                
明日の事は気にせず、夜が明けるまで将来の事を語りあうのが子供。

大人の持つべき社会への責任と、子供が持つ根拠のない勢い。
どっちもバランスよく持ってる人が「理想の大人」かなあ。


まーのまい 19才・女性・大学生(文学部)
都内在住。kiyoの高校の後輩。
〜大人と子供の分類方法〜  
 大人と子供を分ける定義とは、なんだろう??  
 Kiyoさんに原稿(?)を依頼されて最初に考えついたSubjectがこれで した。  
 年功序列という言葉が絶対であった一昔前であったら、皆、迷わず、《どれだけの年月を生きてきたか》 ということが、分類の定義であると答えたことでしょう。   
 しかし、今は答えに窮する人の方が多いと思います。(他ならぬ私も 即座に返答する事は出来ませんでした。)   
 年をとるにつれて自然と自制心、分別などを学ぶことが可能であった時代は過ぎ去りました。かつては、家族という小社会の中で、子供たちは親 から学び、その後、大きな社会の中で、家での経験を生かし、もしくは応用して社会に適応し、大人と呼ばれるのに相応しい人間へと成長していっ たのです。それが、今は家という、子供が学ぶべき最初の社会が崩壊してしまったため、十分な基礎知識を持たずに社会(現行の教育制度でいう学校)に出ざるを得なくなってしまいました。その結果が、いじめによる不登校、44.4%も急増した公立小中高の生徒の自殺者数へと結びついている わけです。  
 世間は学校を非難しますが、一体、学校を非難する人々の何割が家での教育をきちんと実践しているのでしょうか?  
 自分の、親として、大人として果たすべき責務を怠っておきながら、その結果子供に生じた歪みを他人の所為にするなど、大人のすることでしょ うか?    
 大人であることの最低限の条件は ≪自分の責任は自分でとること≫ だと私は考えます。その最低限の条件を満たしていない人間のなんと多い ことか。  
 いまの社会に本当の意味での大人はほんのひとにぎりしか存在していな いのではないかと思われます。    
 【ガン黒茶髪】という言葉に代表される現代の若者を痛烈に批判する風 潮がありますが、彼らを非難できるほど我々が立派な人間だとはとても思 えません。  
 世間に溶け込んでいるようにみせかけて、ある日、信じられない程残虐 な犯罪を犯す人々。  
 彼らは全くの一般人で、世間の評判もよく、我々の身近にもいそうな人々です。しかし、平凡な仮面の下では、理性という名の器から狂気という 名の水が零れ落ちていたわけです。  
 自分で、自分のストレスを発散する方法も知らない彼らを大人と呼ぶこ とができるでしょうか?  
 それよりは、まだ、【ガン黒茶髪】と呼ばれ、どんなに非難されようと も、少なくとも自分で自分のストレス発散は出来る彼らの方が大人と呼ぶ には相応しいといえるでしょう。  
 身体だけは大人でも、精神面では全く成熟していないアダルト・チル ドレン。彼らの存在は大人のあり方、そして家のあり方に新たな波紋を投 げかけています。  
 我々に出来る、最初の解決策は ≪家のあり方について見直すこと≫ ではないでしょうか。               
 The END


23才・女性・フリーター
神奈川県出身。都内在住。kiyoのネット友達。
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 いつまでも子供みたいだと言われたい  
 例え大人だからと言っても  
 大人らしくいる必要はないから  
 そのままで  
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 恋をする時は、皆子供みたいだと思う。  
 例えば普段しっかりしてる人が、好きな人の前で甘えたりしてる姿はとてもかわいいと思う。でも実際の子供の方が素直だから、大人は遠回りしたりすれ違 ったりうまくいかなくて難しいと思う。でも、恋愛は大人しか知らない。   
 大人になると少し優しくなるから、子供程無鉄砲に人を傷つける事が少なくなるような気がする。個人の経験にもよるでしょうが。。   
 個人差はあるけど、皆大人の面も子供の面もあるから。それを素直に出せるか出せないかによって人間性が決まってゆく。


rくん 23才・男性・大学生(経済学部)
埼玉県在住。kiyoのネット友達。
 子供の世界、大人の世界この2つに境目はないでしょう。。
 子供の時代は子供の世界にいるだけでも経験を積んで行くに連れ人はいずれ大人の世界にも行けるようになるのかな?
 っていう感じ。
 一般的な”大人”になるっていうことはこの境界線を自分なりに、自分の考えで行っ たり来たりすること何じゃないかな?大人になっても子供の領域にいる人、場面によ って変える人、大人の世界から出ようとしない人。。。 それが人間の可能性が無縁たるゆえんでしょう、教える立場の大人が子供に教わるこ とだってあるんだからね。
  結局皆同じ”人間”ってことでしょ。


深沢 裕貴 20才・男性・大学生(経済学科)
都内在住。kiyoの中学高校の同級生。
 『おとな』と『こども』
 いい感じのおじいさんとおばあさんのカップルときどき見かけませんか?
 この間、見かけたのは自転車に二人乗りしているおじいさんとおばあさん。 おじいさんが自転車をこいで、おばあさんはうしろで日傘をさして、ちょこんと横向きに座ってました。 自転車はとてもゆっくりです。
 私はまだ『こども』ですけど、 いつか、ずっと先かもしれないけれど、年とった時に あんな風な関係を築ける『おとな』になれたらなぁ、なんてね。
 う〜ん... ど、どうですか? こんなんでいいんですか? 
 『おとなとこども』にあんまり関係ない? いつか、ずっと先だけど、おとなになって、好きな人とこんな感じに なれたらなぁ、と思って書いたんだけど。 おじいさんとおばあさんになっても、二人でああいう風な関係を築いているっていう事は、それはそれで、とっても『おとな』な関係だと私は思います。 生涯を分かち合える唯一人の人を選び出す能力ってのは、 『おとな』の持つ能力な感じがするんです。 『こども』の内に結婚すると失敗することが多いって聞くしね。
 『おとなとこども』っていう題から私が想像する趣旨から ちょっとずれてるかなって気がしないでもないんだけど... どんな内容でもイイ、って言うからいいかな、と割り切ってみたりして。 これ以上考えるとクヨクヨしてきそうだからもうやめよ。


饗場 貴史 20才・男性・大学生(生命工学科)
都内在住。kiyoの高校の同級生。
大人とは 酒が飲める事なり                                                          


阿部美菜子 20才・女性・大学生(日本語日本文学科)
神奈川県在住。kiyoの大学の友達。
 「こどもとおとな」
 「大人になんてなりたくない」、「子供の頃の心を持ち続けたい」 「私はまだ子供だからそんなことできない」、「子供じゃないんだからほっといてよ!」とか、自分の都合のいい様に大人になったり、子供になったり・・・。我ながらずるいなぁなんて思ってしまう。
 今年20歳になった。いつもと変わらない誕生日を過ごしたが、心の中は複雑だった。「まだ20歳」なのか、それとも「もう20歳」なのか それすらわからない。ただはっきりとしていたのは、「20歳ってこんなに子供なのか」という驚き。そう、ずっとお兄さんだと思っていた 高校球児がいつに間にか同年代になっていたことに気がついたときの あの感覚と同じ感覚である。
 「大人の仲間入りね」なんて周りからはいわれるけれど、「本当にそうなの?」と言う疑問が常に頭の中を付きまとうのである。20歳になってした事と言えば、国民年金の支払い、選挙の投票、成人式の着物の購入などであるが、その大半は私がした事と言うよりも むしろ娘が20歳になって、親がしてくれた事である。
 辞書では、「大人」について「一人前に成長した人。成人。分別がある事。分別のある人。」と定義されており、やはり20歳で、大人と子 供について一定のラインが引かれているように思えてしまうが、その一方で子供について、「年のいかない小さい子。」と並んで「精神的 に十分成長していない大人。」と定義されている事に注目したい。
 成人=20歳以上というラインは一応引かれている事は間違いないけ れど、大人の中にも子供は存在している。高校球児が自分よりも大人びて見えるのは、目標をしっかり見据えて、自分自身を懸命に表現しようとする、内面の充実からなのだろうか?年齢的な問題という事よ りも、内面の充実が大人と子供のラインに重要な役割を果たしているのではないかと思った。 小学校に行き始めてしばらくした頃、「大人はいいなぁ。自由で。学校にも行かなくていいし。」なんてよく考えていた。「自由=何を しても良いという事ではない。自由とは自分が自分である理由を知る事ができた人こそが得られるものなのだ。」という事を、何かのテレ ビで聴いて妙に感動してしまった事がある。
 「大人=自由=自分が自 分である理由を知る事」なのだとすれば、私が「大人」になれる日はまだまだ遠そうだ。
 20歳の抱負として私は、「立派な大人になりたいと思います。」などとはあえて言わない。言わないというよりも言えないのだ。果たし て「大人」というものがどういうものなのか、結局まだわからないか ら。今言える事は、「背伸びをせず、少しずつ自分を見つけていきた い。」という事だけだ。


津村 政孝 42才・男性・大学教授(刑事訴訟法)
山口県出身。都内在住。kiyoの去年のゼミの担当講師。特別ゲストとして寄稿していただきました。
 「おとなとこども」
 少年方法巡る議論がこのところ盛んだ。刑事訴訟法の特殊なもの(これを特別法といいます)としての性格が少年法にはある。私は刑事訴訟法を専攻しているので、少年法も私の「なわばり」のなかにある。しかし。ここでそんなことを書こうとは思っていない。
 私は、おとなあるいは社会と言っても良いが、おとなにとってこどもはどういう存在かをもっと考える必要があると思っている。たとえば、「いじめ」がしばしば問題にされるが、ではおとなの世界に「いじめ」はないかといえば、たぶんこどもの世界以上に存在するのだろう。会社における「窓際族」の扱いなど、その典型だ。こどもは大人の社会を映す鏡なのだと思う。こどもは社会と無縁ではありえない。社会の風潮からも同様だ。だから、「いまどき」のこどもについて否定的な評価をする人は、そうしたこどもを生み出した自分も含めた社会を批判していることになる。
 しかし、わたしはこどもをおとなと一緒にしようとは思わない。自立していないこども(実はおとなでも自立していない人おなじなのだが)は自分で追うべき責任を果たせない、その意味対等の存在ではないと思うからだ。だからといって何でも大人の自由にして良いとも思わない。彼らも成長すればおとなになるのだから。自立したおとなになるのに必要なことは与えなければならないと思う。ところが、現状はこどもがおとながこびすぎている部分が少なくないと思う反面、こどもも「おとな候補生」なのだという意識がおとなに足りないようにも思う。どの部分でこどもをおとなど同じに扱うべきか?こどもたちが自立した大人に早くなりたいと思うかどうかが、いくつかあるかもしれない基準のひとつを提供するようにわたしには思える。いずれにしてもこどもから「おとなはずるい」といわれないような、きちんとした態度でいることがなにより大事だと思う。


るっぱ 20才・男性・大学生(文化学科)
都内在住。kiyoの小学校からの友達。
 スカイダイビングしてます。                                                         
 地面なんか見えないです(スカイかどうかすら謎)。                                          
 ふと直径1メートルの足場が見えました。
 
乗ったら大人。 落ちたら子供。

 あたしは子供志望。 ま、乗ってもまた落ちてもいいし。 へらへらしてください。


かね 23才・男性・大学院生(電気情報研究科)
神奈川県在住。kiyoのネット友達。
 「”おとな”と”こども”について」
 ”おとな”と”こども”っていったい誰がどんな風に分類するのだろう?
 単純な問いだけどなかなか明白な答えだせる人っていないよね。 たくさんの人間を集めて巨大ふるいにかければ、細かいめからこどもがおち、おとなだけがふるいの中にのこるのかなぁ?そんな馬鹿なことを考えてる私は子供?
 判断基準は年齢、体格、精神的な成熟度など人それぞれで 考え方も、境界線の引き方も違うものだと思う。それに判断する人の主観的なものも含めたら他人との見解の違いは 歴然と現れるだろうね。まあ、人それぞれ判断基準が違うんだから多くの意見があるんだと思う。だからこの問いに対するより良い答えを見つけるために一番必要なことって多くの人の価値観を知るってことではないのかな?
 今回のkiyoの宿題によりたくさんの人の意見が聞けるってことが 私にとって非常に興味深いのです。だからたいした文章もかけない私も参加してしまったんですがね。
 最後に今回のプロジェクト(?)が完成したあかつきには本当に巨大ふるいを 作ってもらいたいね。地球人全体でふるってみていったいどれだけのおとながいるのだろう?単なる好奇心だけなんだけどね。


天使 25才・女性・OL(CADオペレーター)
福岡県在住。kiyoのネット友達の先輩。
―――「大人と子供」について―――
 「子供だよねー」「大人なんだから...」 こんな言葉をあなたは使っていませんか?
 考えてみましょう。あなたがまだ小さかった頃のことを。何も考えずに大声で笑っていた頃を...。
 今の自分は大人だと思いますか?
 大人と子供の境界線って本当に存在すると思いますか?
 どこからが大人なんだろう...。
 そんな風に考えたことはありませんか?どんなに年齢を重ねても、どんなに経験豊富でも...。いつまでもピュアな心を持っている人ってステキですよね。
 よく考えてみてください。 「大人」と「子供」、どちらがピュアだと思いますか?
 私はどちらとも言えません。なぜ?って。 結局は同じ人間であり、どちらも関係ないのです。 辛いこと、悲しいこと、もちろん楽しいことも... みんな持っているものだと思うのです。
 「大人」と「子供」、この問題は私には難しすぎる。 二つの境界線、あえてあげるとすれば...やはり二十歳なのだろうか。 身近なところで言えば選挙権、税金等。 しかしながら、これだけでは決められない。
 結論で言えば、私にはわからないという答えがBESTなのかもしれない。 自分で大人だって思えば大人だろうし、「まだ子供だわ」って思うなら 子供だろうし...。
 それでいいんじゃないのかなぁ...


kiyo 20才・男性・大学生(法学科)
このHPの主宰者です。この企画を考えて実行した人。
 「おとなとこども」〜 alternative の追求〜
 私が alternative という単語を覚えたのは、航空小説を読んでのことです。普通、航空機は、フライトプランを作成する時に、帰着空港に降りられない時の代替空港をプラン上に入れます。その代替空港のことを、オルタネィティヴと略したりします。
 教育にしても人生にしても、結局この世は、alternative をいかに確保するかだと思っています。私の親が育った時代、警察官はいい就職先でした。冷戦時代だったので、保守的な地域では、自衛隊はいい職場だけど、ちょっと危険な仕事として考えられていました。看護婦はまだまだ憧れの職業であり、大学は、他に目的を見いだせない、モラトリアム期間を彷徨っている若者の避難所に過ぎませんでした。  
 丁度、共通一次とぶつかった世代である彼らは、社会や親が、若者に alternative な人生を提供できなくなった世代でもあります。共通一次が定着し、若者たちが集団就職ではなく、単に田舎を出たいがために進学し始めた頃から、人々の人生の選択肢は、どんどん狭められて行ったような気がするのです。  
 お受験に狂奔する親たちは、結局の所、alternative な価値観を見いだせなかった不幸な人々です。若者の受験勉強は、これはこれで意義のあることです。よりよい大学に入るということは、人生の選択肢を拡げるということですから。ただ、悲しいかな全員が一緒にゴールに飛び込むことは出来ないのです。周囲が期待し、本人が望んだ結果が出せなかった時、それでも人生には、いろんな選択肢があることを教えてくれる教師や隣人や保護者がいてくれてもいいと思うのです。  
 きっとその原因は彼らの親はそうではなかったし、出会った教師たちもそうでは無かった。一つ前の世代は、みんなそうやって、人生の道標を見いだせもせず、教えを請うべき先達もいず、ただ受験戦争に雪崩れ込んで行き、その勝者たちが、たいした疑問を抱くこともなく、社会やマスコミの一線で、延々と同じ過ちを繰り返そうとしています。  
 マスのメディアが提供する世界に、alternative なものは皆無だし、彼らの価値観の中で愉快に暮らせる人間は、ごく限られているという現実に気づくべきでしょう。それはそれ、これはこれで、個の価値観を確立しなければならない時代になったということです。  
 私は「おとな」として岐路や思考を要求される場面に立った場合、常にalternativeを保持し、それぞれに評価をしていきたいと思っていることです。それは逃げ場を確保する、ということではありません。そうではなく既存の価値観に左右されることなく様々な立場を理解し、そして自分も臆することなく信じる道を歩くことが出来ることにつながることになるのです。だから、私はいつもalternativeの存在を考慮に入れることを忘れたくないし、そのためにも思考するときにはこだわっている訳なのです。そして一方で「おとな」として私は前述のように「こども」にたいしてやはりalternativeを提供できたらいいなぁ、と常々考えているのですがそれには様々に努力が必要なのを最近身にしみて感じるのです。